平安〜鎌倉期の人も排便後、紙で尻を拭いていた

餓鬼の世界を生き生きと描いたのが、餓鬼草子だ。現存するのは東京国立博物館蔵の旧河本家本(全長380cm)と、京都国立博物館蔵の旧曹源寺本(全長538cm)である。

全体を通して、平安〜鎌倉期の庶民の生活を窺い知ることができる。例えば、当時の排便の様子なども描かれており、実に面白い。つぶさに見ると、便の近くにチリ紙が落ちている。当時の庶民も排便後、紙で尻を拭いていたのである。

庶民のうんちを、餓鬼が狙っている
出所=旧河本家本
庶民のうんちを、餓鬼が狙っている

旧河本家本(東京国立博物館蔵)の、ひとつの部分に着目した。庶民の埋葬の場面である。そこには墓場に現れた餓鬼が墓を暴き、人肉や遺骨を貪り食う姿がユーモラスに描かれている。注目すべきは、仏教由来の石塔墓が、みてとれることだ。中世の人々の墓や埋葬がどのような形態であったか、を知ることのできる稀有な資料がこの餓鬼草子でもある。

棺桶や当時の墓の様子が具さにみてとれる
出所=旧河本家本
棺桶や当時の墓の様子が具さにみてとれる
奥に傘塔婆と思しき墓がみえる
出所=旧河本家本
奥に傘塔婆と思しき墓がみえる

庶民の葬送は8世紀ごろ、京都に都が遷されてから、次第に広がりをみせていったと考えられる。この頃、天皇をはじめとする支配階級の墓が、洛外の寺院境内に積極的に造られはじめる。これを「陵寺」といった。

たとえば、851(嘉祥4)年に仁明天皇の菩提ぼだいを弔うために、陵墓に隣接する地に平安宮清涼殿の建物を移築して造られた嘉祥寺(伏見区深草)などである。

当時の平安京は人口の増加とともに、遺体の処理が大問題になっていた。しかし、洛中には墓はつくられず、郊外が葬送の地に選ばれた。今でも地名として残る鳥辺野とりべの(京都市東山区)、蓮台野れんだいの(同北区)、化野あだしの(同右京区)の3カ所である。

いずれも葬送を連想する地名といえる。鳥辺野は、遺体をついばむ烏などを連想させる。餓鬼草子の中にも、そんな荒涼とした埋葬地の様子が描かれている。

蓮台野の「蓮台」とは仏が座る台座のことで、土葬用の棺桶を置いて引導を渡すための台座を指していう場合もある。

化野の「化」は、「空」や「儚さ」を表す仏教用語である。当時の葬送の情景は、現代にもハッキリと見ることができる。

鳥辺野周辺は、大谷本廟(大谷墓地)や大谷祖廟(東大谷墓地)など日本を代表する大型霊園や、火葬場の京都市中央斎場などが点在する葬送の地として、現在に受け継がれている。また、蓮台野は別名「千本」という地名にもなっている。その由来は蓮台野へと向かう葬送の道に卒塔婆千本を立て、死者の魂を供養したからだといわれている。

蓮台野の墓碑としての石仏は後世、掘り出されてまとめて祀られた。それが上品蓮台寺(北区)などに集められている。また、化野でも地域に点在する石仏は、明治時代になって化野念仏寺に集められた。