私は今の私の人生を生きる
そうやって家族というものは歴史を更新してゆく。それが遺伝子の作法であり、役目なのではないだろうか。過去に生きた女たちが残した、無数の分岐点を切り捨てて、私は今の私の人生を生きている。
そう思った時、私の目の前には数限りない選択肢が広がっているように思えた。それらのうちのどれを選んでもよく、またどれを選んでも「私の人生」にしかなりようがないのだった。
思えば、私が女の子を産むことに対して感じていた不安は、母が私を扱ったように、私も娘を扱ってしまうのではないか、という恐ろしさでもあった。
無事に出産を終えた今、娘の「選ばなかった人生」、つまり「娘の一つ前のバリエーション」としての、私の人生がはじまったように思う。
娘のとも母のとも違う、私の人生だ。
これから生まれるすべての女の子のために
娘もいつか、母である私の人生が、自分の人生の単なる一つのバリエーションでしかないと気づくだろう。その時、本当の意味で自分自身の人生を歩みはじめるだろう。できれば、そこには呪いがないといい。女としての呪い、娘としての呪い、母としての呪いが。
女に対して投げかけられる、“こうあるべき”という身勝手な視線が、抑圧が、歴史と伝統という接着剤によってべっとりと社会に固着した偏見が、娘の道を細らせ、ふさいでしまわないように。私にできることは、彼女が大きくなるまでに、社会の中のそれらをできる限り減らすことだ。母だからではなく、彼女の前の時代を生きる、彼女が生きなかった人生を生きる、一人の女として。
それは娘のためだけではなく、これから生まれるすべての女の子のために、である(※2)。
※2 夫:私が子どもにできることをここに書くべきかどうか迷いますが、その時その時を楽しく生きられる気持ちと、ここで言う「呪い」が「呪い」だときちんとわかる知恵、そして自分の人生を生きる意志を持てるようサポートしていきたいです。