自己の「多元化」と「再一元化」

一貫した、揺るぎないもののようにみえる「自分らしさ」が、実は状況に応じて使い分けられているということ。社会学者の浅野智彦さんや岩田考さんはこうした傾向を「自己の多元化」として捉えています。

さて、その一方、たとえば石原さんの『「やっぱり怖くて動けない」がなくなる本』では、「私を優先するレッスン」として、次のような例が挙げられています。「私の好きな食べ物を、一番先にカートに入れよう」「この小さな空間は、私が独占して誰にも触らせない」「自分のお小遣いは、毎月しっかりと確保しよう」「自分の取り分は、最初にしっかりと確保して自分を安心させよう」「したくないので、今日は終わりにしよう」「自分のために、お金を遣おう」「自分のために、断ってみよう」(154-5p)、等々。

嶋津良智さんもまた、「自分を気持ちよくする習慣」の一つとして、朝食をカフェやファミリーレストランでとり、「一人静かに自分を見つめ」「おだやかな気持ちで自分の夢や目標を考えたり、『今日一日何をするか』を考え」ることを薦めています(『怒らない技術』162p)。

石原さんの「他者中心」ではなく「自分中心」という考え方からしてもそうですが、こうしたレッスン・習慣に表われているのは、状況に関わらず、「自分らしさ」をまず確保するという態度ではないでしょうか。つまり、人に合わせて「自分らしさ」を調節するのではなく、自分自身のうちに一貫した、揺るぎない「自分らしさ」を打ち立てようとするのが石原さんらの述べる「自分らしさ」なのではないでしょうか。

若者に限らず、今日の社会に生きる人々は、メディア環境の発達等々によって、さまざまな場で「自分らしさ」を小出しに使い分けながら生きるようになっていると考えられます。その意味で今日的な「自分らしさ」の通常モードは「多元的自己」だといえそうなのですが、「心」系自己啓発書は、「自分らしさ」を押し殺していませんか、自分の気持ちとしっかり丁寧に向き合っていますか、自分に嘘をついていませんかといった、「自分らしさ」をしばしば使い分けている私たちにとっては否定することのできない問いを手がかりに、一貫した、揺るぎない、いわば「本当の自分」の探求へ誘おうとします。つまり、自己のあり方が多元化していく状況に対して、一元的な自己を取り戻そうとする誘いを発しているのです。

「自分らしさ」、ひいては「心」というものは、それそのものが不可視であるがゆえに、無限に論じることができる、汲みつくされることのない資源です。自己が多元化している状況は、この無限の資源としての「心」語りをさらに加速させるものだと考えられます。他人に合わせ過ぎて、「心」がおろそかにされていませんか、というようにです。こうした問いに強く惹きつけられる人が一定の割合でいること、これが「心」を扱う書籍がいくつもベストセラーとなる背景なのではないでしょうか。