イマドキの若者のような言動
柴裕之氏は「戦国大名や国衆にとっての優先事項は領国の『平和』の維持にこそあった」と記す(『徳川家康』平凡社)。戦国大名とて人間だから、だれかを恨むことはあっただろうが、個人の恨みを押し殺して、「領国の『平和』の維持」のために行動しなければ、自分ばかりか家族や家臣の命さえ守れなくなった。
当時はそんな時代で、大名たるもの、行動原理は個人の思いなどよりもはるかに家の存続に依拠していたのだが、「どうする家康」の登場人物は、令和の若者のように個人の思いを優先する。
相手を信じすぎる信長
さて、ドラマでは自分しか信じない人間として描かれた信長について、金子拓氏は「本能寺の変直前においても、信長は光秀を強く信頼していたことである」と書く。
根拠はこう記される。「光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずがない」(『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社)。
信長を裏切った人物は、光秀の前にもいた。妹の市を嫁がせた浅井長政。同盟を結んでいた武田信玄、上杉謙信、毛利輝元。家臣では松永久秀、荒木村重。しかし、裏切りを知ったときの信長の反応はいつも共通しており、耳を疑って、信用しようとしていない。
たとえば、浅井に裏切られたときは「虚説たるべしと思し召し候ところ(ウソに違いないとお思いになったのだが)」と『信長公記』にある。松永や荒木の裏切りも、『信長公記』によれば、最初はまったく信じようとせず、裏切りが事実とわかったのちも、なにか不足があるなら考える旨を伝え、慰留しているのである。
藤本正行氏は「信長には、このように話し合いで解決しようとした例が、案外多い」(『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』歴史新書)と書く。そこには、「しくじりを決してお許しにならない」「使えない者は切り捨てる」という信長像はない。
そして金子氏は、「これほどたびたびの裏切りにあった信長は、あまりに相手を信じすぎたのではないか」という結論に達している(同前)。つまり、相手を信用すぎたがゆえに油断が生じた、というのである。