かつて留学していた英国のケンブリッジ大学を訪問している。英国での私の指導者であったホラス・バーロー教授に会うのが主な目的。以下、親しみを込めてホラスと書かせていただく。ホラスは、まだまだ元気で、脳のことや、意識のこと、さらには最近の英国の事情まで、さまざまなテーマについて有益な議論を交わすことができた。ホラスは、脳科学の権威で、「進化論」を唱えたかのチャールズ・ダーウィンのひ孫でもある。ホラスがフェローを務めるトリニティ・カレッジは、万有引力を発見したアイザック・ニュートンも在籍した、名門中の名門。30名以上のノーベル賞受賞者を輩出してきた。
800年以上の伝統を誇るケンブリッジ大学と、明治維新以降にシステムが整った日本の「大学」を比較するのは酷かもしれない。しかし、あらゆる意味において、日本の大学に勝ち目はないと、改めて感じざるをえなかった。問題は、伝統の差だけではなく、日本が陥ってしまっている「文化の罠」そのものの中にある。
ケンブリッジ大学の入試では、「氷の浮かんだ湖にいる水鳥の足は、なぜ凍らないのか」といった非典型的な問題(準備ができない問題)が出題されて、長時間の面接があるそうである。そのような論争的な志向性は、今回滞在中に目を通した、英国の高校の歴史教科書にも明らかだった。第一次世界大戦についてさまざまな資料を提示し、「戦争を始めたのはドイツという説があるが、あなたはどう思うか」と問いかけるのである。
自分の頭で、論理的かつ実証的に考える能力が求められる。グローバル化した世界、インターネット文明で必要な能力は、まさにそのようなものではないか。
一方、「正解」が決まった問題をペーパーテストで解くという日本の学力観。古いだけでなく、陳腐である。日本の大学が、「オワコン」(終わったコンテンツ)と言われてしまうのも、仕方がないだろう。日本の教育システムの「至らなさ」については、論が尽くされてきた。しかし、文部科学省、大学をはじめとする関係組織の「慣性の法則」はそう簡単には変えられない。
日本の教育システムが、早急に改善される、ということは残念ながらないだろう。だとすれば、自衛するしかない。
日本のある大学で教えていて、こんな印象的な体験があった。授業で英語の書籍を紹介したら、次の週までに読んできた女の子がいた。びっくりして、「どこの高校出身?」と聞いたら、「スイスの寄宿舎学校に行っていました」というのである。
子どもをスイスの寄宿舎学校に送れるのは、いわゆる「富裕層」だけという議論もあるかもしれない。しかし、もはや、国民の一人ひとりが、自分の、あるいは自分の家族の利益を自発的に考えるべき時が来ている。
日本の「優秀さ」は、世界の「優秀さ」には必ずしもつながらない。日本の「偏差値入試」を突破して「名門校」に入っても、グローバルな舞台で活躍する人材になれるわけではない。そんな事情に、多くの人が気づき始めている。肌で危機を感じたら、まずは自分の周りという小さなスケールから行動しよう。
ダメなもの、古いものにつきあう必要はない。感覚を研ぎ澄まし、良質なものにできるだけ近づこう。ネット上でも、さまざまなコンテンツに接することのできる現代。一人ひとりが「自衛」を始めることが、結果として日本の教育を変えていく。