ハーバード大学で理論物理をやっている、北川拓也さんと話したときのこと。
アメリカにも、「ハーバード」ブランドみたいなものはあるんじゃないか、そのことを、ハーバードの学生はどう考えているの、と聞いたら、北川さんの答えはあっさりとしていた。
「そりゃあ、ありますよ。でも、皆、当然だと思っています。実質があるから」
へえ、と思うと同時に、日本とアメリカにおける「大学」のイメージの違い、そして、「学歴」のこれからの意味について、考えるきっかけをもらった。
学歴に過剰にこだわるのは問題だが、その意味を、一概に否定するのもおかしい。その人が辿ってきた道筋だし、資質を判断するうえでも、一定の情報にはなるからである。
問題は、学歴が、社会的にどんな機能を果たすか。北川さんの言っているのは、「ハーバード」にはブランド・イメージだけでなく実質も伴う、やるべきことをしている、だからこそ、自分たちのプライドもある、ということだろう。
学歴には、2つの効用があると言えるだろう。第1は、実質的なもの。社会に出てさまざまな活動をするうえで、役にたつ知識やスキル、経験を得る場としての大学。そのような意味における学歴を否定する人は誰もいないし、これからも重要だろう。
第2は、名目的なもの。学歴には、社会の中での「ポジション取り」というような意味合いもある。メンバー数の限られたクラブに、入会できるかどうか。入会することで、その後の人生が有利になる、というような思い込み(ないしは実態)があるのである。
誤解のないように付言すれば、学歴が「クラブ」のような機能を果たすのは、日本だけのことではない。北川さんの言うように、アメリカでも有名大学にはそのような傾向がある。イギリスにも似たような風潮があって、オックスフォードやケンブリッジ以外は大学ではない、と公言するようなスノッブな人たちもいる。実際にはほかにもすぐれた大学がたくさんあるのに、確立したブランド・イメージが一人歩きしているのだ。
これからの世界で、本当に必要な「学歴」は何かと言えば、もちろん「実質」のほうであろう。何が起こるかわからない不確実な時代に、人生という「ピッチ」を疾走できるかどうか。高度な判断をし、それを実行に移す力を持っているか。そんな学歴だったら、大いに目指したらいい。
問題は、ブランド・イメージとしての学歴。邪魔にはならないが、仕事をするうえで大して助けにもならない。世界は、どんどん実力主義になっている。特にIT系では、学歴は意味を持たない。ザッカーバーグ氏やゲイツ氏のように、「中退」の人が活躍していることを見ても歴然としているだろう。
ブランドとしての学歴が通用するのは、古い社会。そんな「ニッチ」も確かに存在はするが、それに頼っていると、現代においては画期的な飛躍をすることは難しい。
日本では、有名大学の入学式が、下手をすると一昔前の「結婚式」のようになっている。両親が来て、長い受験の日々を振り返り、「これで人生は食いっぱぐれがない」と安心するというような。
本当は、学歴は終着点ではなく、出発点にすぎない。だからこそ、アメリカでは卒業式のことをcommencement(「出発」)と呼ぶ。学歴が「保証」や「保険」ではなく、人生の出発点だと思える人こそが、これからの社会では本当の意味で輝くのだろう。