処分されても仕方がなかった
信康事件の本質は、柴裕之氏の以下の記述に集約されるだろう。
「武田氏との戦争の続行を求める、遠江浜松城の家康を中心とする権力中枢の主戦派と、武田氏との接触を持ち、敵対を見直そうとする三河岡崎城の信康周辺との間で、対武田氏外交の路線をめぐる対立が再燃したのである」(『徳川家康』平凡社)。
そんな状況では同盟相手で、事実上の主君であり、信康の義父でもある信長に申し開きできないのは当然だ。そもそも徳川家中の分裂は家康の責任であり、家康には信長に、みずからの責任のとり方をしっかりと見せる必要があった。
なにしろ、すでに「信康逆心」の風説が流れていたのだ。平山氏の以下の記述が的を射ている。
「中世は、悪事の噂が流布するだけで、領主や地域社会から罪科認定を受ける根拠となりえた時代であった。ましてや戦国大名当主の嫡男が、父や義父への『逆心』を企てているという雑説が流れ、それが少なくとも徳川家中に知れ渡った以上、家康は処断に踏み切らざるをえなかったと考えられる」(『徳川家康と武田勝頼』)。
決して信長が冷酷だったからではない
「どうする家康」では、家康が信長の魔手から信康の命を守る、という面ばかりが強調された。親が子の命を守りたいのは当然だが、当時の家康の立場で、それをどうやって守ることができただろうか。守れなかったのは、ドラマで描かれたように信長が冷酷だからではない。家康に非があったからである。
たしかに、信康事件は謎に満ちている。それでも、周辺史料と状況証拠に当時の時代状況や常識を加味し、一定の推測はできる。
ところが「どうする家康」は、謎が多いことをいいことに、現代人の感覚で物語を空想している。リアリティがないのは当然である。