マナーの悪い張本人はマナー論議に参加しない

迷惑撮り鉄を「珍撮団」と呼んでもすぐに弱体化しないと思う。しかし撮り鉄の風評被害の軽減になるだろう。とにかく私たち鉄オタは「珍撮団」と区別してもらいたい。

10年ほど前、しなの鉄道沿線の桜が珍撮団に伐採されるという事件が起きた。あの時も撮り鉄批判で炎上した。マナー論議もあり、鉄道雑誌やカメラ雑誌がマナー向上を訴えた。

あれから10年、状況はちっとも変わらない。マナー論議にマナーの悪い張本人は参加しないからだ。マナーをわきまえた人々が、それぞれの方法で議論するだけ。マナーを学ぶべき珍撮団に届かない。

満開の菜の花と蒸気機関車
写真=iStock.com/taka4332
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なぜ撮り鉄は同じ場所で同じ列車を撮りたがるか

先日、SNSで友人が「なんで撮り鉄は同じ場所で同じ列車を撮ろうとするのか」と問いかけた。同じく不思議に思う人もいるかもしれない。以下のような私の持論で納得してくれるだろうか。

簡単に言えば、撮り鉄という趣味は狩猟に通じる。誰かの獲物では満足できないから、自分だけの獲物がほしい。同じ場所で撮った同じ列車の写真を飾るならプロの写真でいい。しかしそれは自分の獲物ではない。だから同じ場所で狩ろうとする。

もう少し大きく論じれば、たいていの趣味は「狩猟」「採集」「栽培」の3つの要素のどれかがある。獲物を獲得する「狩猟」、モノを集める「採集」、モノを作る、育てる「栽培」だ。これらは人が食料を得るための本能と言っていい。

ところが人が進化し、通貨によって経済活動を始めると、「狩猟」「採集」「栽培」をしなくても食料を得られるようになった。しかし食料を得るための本能は残った。「狩猟」「採集」「栽培」の本能を満足するために遊び始めた。これが趣味。つまり本能の代償行為である。趣味はお金で食料を買ったり、領民から献上されたりする人々が始めた。

鉄道趣味で言うと、撮り鉄は狩猟、きっぷや鉄道部品コレクションは「採集」、鉄道模型は「栽培」となる。私のような乗り鉄はどれかと言えば「採集」に近い。「○○へ行った」「○○を見た」という経験をコレクションしている。地図帳で乗った路線を塗りつぶしていき、全路線の乗車記録をコンプリートした。新路線が開業するたびに乗りに行き、乗車記録を増やしている。そこまでしなくても「起点から終点まで乗りたい」とか、「特急列車や観光列車に乗りたい」などの経験を求めて動く。