多くの週刊誌が“原点”を忘れてしまっている
私が見たのは朝日新聞だが、メディア欄に小さく出ていただけだった。だが、今の文春のネームバリューなら、社会面で大きく扱ってもいい“事件”ではないのか。名誉毀損の賠償金で330万円はかなり高額である。私だったら事の詳しい経緯と名誉を毀損された片山議員のインタビューを載せる。
私が見逃しただけなのか、文春誌上で片山議員に対する謝罪文を読んだ記憶がないのだが。
このまま文春一強時代が続くということは、文春が取り上げない問題は大きな話題にもならず、忘れられていくということにならないか。
文春とて神羅万象すべてを取り上げることはできない。誌面を見て感じるのは、原発新増設や異次元の防衛費増額、憲法9条改悪にはあまり関心がないようだ。マイナンバー問題も週刊新潮のように熱心ではない。自民党の個々の政治家のスキャンダルには熱心だが、自民党独裁体制を根底からひっくり返してやろうという、強い“意志”はないように思える。それは発行元の文藝春秋がやや保守的な体質だからだろうか。
かつて丸山邦男氏は週刊誌の役割をこういった。「週刊誌の今日に期待するものは、管理社会のなかで口や眼を封じられているふんまんを、弱き者の味方となって自分たちの眼の壁を破ることではないか」。多くの週刊誌が忘れ去って、顧みようとしない“原点”である。
メディアに一強はいらない。お互いが批判し合い切磋琢磨しなければ、この国の言論・表現の自由はさらに危ういものになる。
広末涼子のW不倫騒動を読みながら、そんなことをぼんやりと考えた。