あきらめた男の話

ここで、ある「あきらめた男」の話をしよう。

その男は、私の家の近くの鍛冶屋で斧を買い、「この斧の刃全体を刃先と同じくらいぴかぴかに磨いてください」と頼んだ。

鍛冶職人は、「もしあんたが砥石といしの車輪を回してくれるなら、望みどおりぴかぴかに磨いてやろう」と答えた。

男は提案に応じたが、斧を砥石に押しつけた状態で車輪を回すのはなかなかの重労働だった。男は何度も手を止め、斧の光り具合を確かめたが、やがてあきらめてこう言った。

「よし、もうじゅうぶんです。このまま持って帰っていいですか?」

だが、鍛冶職人は首を横に振った。

「おいおい、もっとがんばりな。これじゃ中途半端だ」

すると、男は答えた。

「たしかに完璧じゃありませんが……これくらいの磨き具合がちょうどいい気がしてきたんです」

世の中には、この男と同じような人が大勢いるのではないだろうか。たいていの人は、徳を身につけるために計画を立てたりはしない。よい習慣を身につけ、悪い習慣を断ち切ろうと思い立っても、その道のりの険しさを知ると簡単にあきらめ、「これくらいの磨き具合がちょうどいい」という結論を出してしまうのだ。

「完璧を目指すこと」に意味がある

私自身、懸命に努力を重ねるなかで、ときどきこんなふうに考えた。

「私はいま、道徳を意識しすぎてばかげた努力をしているのだろうか?」
「他人から見たら滑稽ではないだろうか?」
「完全無欠な人間になったところで、周囲から妬まれたり憎まれたりするのがおちではないか?」
「そもそも、本当に『徳のある人間』なら、友人の顔を立てるためにも、多少は自分の欠点を残しておくべきではないのか?」

正直、自分が性格的に「規律」を守れないことは昔からよくわかっていた。歳をとって記憶力がおとろえてからは、なおさら自分のだらしなさを痛感するばかりだ。だが、若き日の私がしたことはけっしてむだではない。たしかに、「道徳的に完璧な人間になる」という当初の目標は達成できなかったが(もっといえば、その目標に近づくことさえできなかったが)、懸命に努力したおかげで、人として多少は成長したし、多少の幸せをつかむこともできた。

これは、印刷された文字を手本にして完璧な文字を書こうとする試みに似ている。きれいに、ていねいに書く努力を続ければ、手本と同じ域には達せなくても、そこそこ読める文字が書けるようになるのだ。