今、自分が直面している問題に古典を生かそうとする際、心得ておくべき重要な前提がある。古典が書かれた当時と、今とでは状況が違うので、そのまま生かすことは残念ながらできないのだ。
だから、まず古典に書かれている内容の「抽象度」を上げて読み取ることが非常に重要だ。これができなければ、古典を仕事に生かすことは難しい。
勉強会などで「今日は経理の話だから、自分には関係ない」という営業マンが“生かせない人”の典型だ。経理の話でも、例えば効率のいい仕事の仕方、数字の扱い方……という具合に抽象度を上げていけば、必ずどこかで営業の仕事とぶつかるはずである。
古典であればなおのこと、書いてあることの抽象度を上げ、現在にも応用できる原理原則として読み解くことが必要だ。そこに、同じく抽象度を上げて捉えた自分の問題を重ね合わせるのである。自分の置かれている状況にどういう制約条件が付いているのかを考えつつ、古典の原理原則を変形し、当てはめて使っていく。これが古典の使い方の一番大きな基本である。
しかし、ある知人の言葉を借りると、何を聴いても学べる人と、何を聴いても学べない人がいる。「具体的に言ってくれないとわからない」という人には、古典を自在に生かすことは難しい。卑近なノウハウにまで落とし込んだ本にばかり慣れすぎてしまうのは、この点で弊害もある。
中国・春秋時代の兵法家、孫武の著した『孫子』、ナポレオンと戦ったプロイセン陸軍の参謀、カール・V・クラウゼヴィッツの『戦争論』。いわば戦略論の二大古典だが、内容は対照的だ。一対一のパワーゲームになったときにどう振る舞うべきかを考察したのが『戦争論』。逆に、『孫子』は一対一に持ち込まずにいかに成果を挙げるかを考えている、と取れる一面がある。
ソフトバンク社長の孫正義氏や、サッカーの元ブラジル代表監督のスコラリ氏など、『孫子』を活用する著名人は多い。その理由の一つが、他の戦略書と比べて視野が広いことだ。
人は往々にして戦いや競争を一対一の関係で捉えがちだが、『孫子』は「それでは第三者に漁夫の利をさらわれ、結局は損をする」と説く。その典型が、有名な「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という言葉だ。『孫子』は多数の敵を想定する。百戦百勝は一見、素晴らしいが、その間に体力や資源を枯渇させ、101戦目に第三勢力に攻め込まれて滅びてしまえば何の意味もない。一対一の場合でも、長期戦になれば同様に体力をすり減らし、同じ結末を迎えてしまう。
同様に「兵は拙速を聞く」、つまりもし戦うなら短期決戦で、とも言っている。しかし、これは実際には難しい。なぜなら、勝ち逃げの難しい麻雀のように、戦いは自分の意思だけで長引かせたり短くしたりできる性質のものではないからだ。