二倍の願い
道を挟んで二軒の肉屋が商売をしていた。あるとき、一軒の肉屋の主人に神様がこう告げた。
「お前の願いをなんなりと叶えてやろう」
肉屋が自分の願いを言おうとしたとき、神様がこう続けた。
「ちょっと待ちなさい。お前の願いはすぐに叶えてやるが、向かいの肉屋にはお前にやる二倍を授けてやることになっている。お前が一億円をくれと言うのならば、お前にすぐさま一億円をやる。ただ、同時に向かいの肉屋には二億円やることになる。よく考えてから、お前の願いを言いなさい」
肉屋は困った。しばらく考えてから神様に質問をした。
「それじゃあ、私が不幸を願えば、向かいは私の二倍だけ不幸になるのですか?」
「そうだ。その通りだ」
「わかりました。では、神様、私の片眼をつぶしてください」
自分と他人の幸不幸を切り離す
この後どうなったのだろうか。神様は、主人公である肉屋の主人の望み通りに彼の片眼をつぶし、向かいの肉屋の主人の両眼をつぶしたであろう。
客観的にみれば、二人とも不幸になった。しかし、主人公はそう思わなかった。自分も不幸になったが、向かいの肉屋の主人が自分よりももっと不幸になったのだから、自分は相対的に幸福になったと考えたのだ。馬鹿げた話である。
「隣の貧乏は鴨の味」「他人の不幸は蜜の味」ということわざが示すとおり、私たちは他人の不幸を喜ぶ傾向を持っている。なぜかと言えば、自分の幸福度合いを、他人の幸福度合いと比べて判断するからである。
「自分は決して幸せではない。しかし、あの人に比べれば自分はまだましだ。よって、自分はそこそこ幸せである」という思考回路で自分を慰めるのだ。
私たちは自分の様々な欲求が満たされること、つまり自分が幸せになることをめざして行動する。
ところで、私がどう行動するかは他ならぬ私が選択する。ということは、自分が幸せになれるかどうかの責任は自分自身にある――すべてではないが――ということになる。ある人が幸せになるかどうかの責任は、その人以外の人にはないということだ。
こういう考え方を頭に置きながらこの寓話を今一度読んでみると、どうすれば隣人が幸福になれるか、どうすれば隣人が不幸になるのか――そういうことを主人公である肉屋の主人がコントロールしようとしたから話がおかしくなるのである。この寓話から学ぶべき教訓は、自分の幸不幸と、他人の幸不幸を切り離すことが肝要ということである。