水源が豊富な大井川の中流が「砂漠」である理由

田代ダムは、大井川最上流部にある東電RP唯一の発電用ダムで、1928年に建設された。山梨県早川町の田代川第二発電所、田代川第一発電所の運転に使われている。

山梨県の発電所のために使われる田代ダムの貯水池(静岡市)
筆者撮影
山梨県の発電所のために使われる田代ダムの貯水池(静岡市)

エネルギー確保が最優先された高度成長期の1964年に、水利権はそれまでの毎秒2.92トンから2.07トン増量され、現在の毎秒4.99トンへと引き上げられた。単純に計算すれば、月量約1300万トンという膨大な水が静岡県から山梨県へ流出している。

大井川水系は、1951年から始まった静岡県総合計画の電源開発で電力用ダムの建設ラッシュとなり、田代ダムだけでなく、本流・支流に中部電力の井川ダム、畑薙ダム、塩郷ダムなど合計32カ所ものダムが張り巡らされた。

全国的に見ても、たった1つの河川がこれほど利用され尽くされるのは他に例がない。つまり、大井川水系はそれだけ水量が豊富なのだ。

豊富だが、貴重な水を効率的に利用、下流域の都市部に送水するために、ダムとダムの間は導水管で結ばれる。このため、大井川の上流域から中流域までは干上がり、特に、中流域は水一滴も流れない「河原砂漠」となってしまった。

ほとんど水の流れない干上がったままの大井川中流域(川根本町)
筆者撮影
ほとんど水の流れない干上がったままの大井川中流域(川根本町)

多くの貴重な自然環境が損なわれただけでなく、中流域の地下水位は低下し、井戸水は枯れてしまった。飲料水は不足し、毎年のように災害にも見舞われた。

歴代知事は電力会社との交渉に尽力した

このような状況が続いたため、1970年頃から中流域の住民らはまさに命を懸けた「水返せ」運動を始めた。

住民らの「水を返せ」の声に応えた当時の山本敬三郎知事は1975年12月、東京電力本社に出向き、「田代ダムの毎秒4.99トンのうち、毎秒2トンを大井川に戻してほしい」と要求した。

10年前に増量された約2トン分を大井川に取り戻すのが目的だった。リニア工事で川勝知事が「全量戻せ」と訴える同じ量を山本知事は、東京電力に要求したのだ。

山本知事は続けて中部電力に対し「井川ダムから川口発電所までの約80キロの流域に水を返してほしい」と訴えた。

仮に田代ダムから水が戻されたとしても、中流の井川ダムで再び吸収されてしまい、導水管を流れていけば、せっかく戻ってきた毎秒2トンの水はそのまま中部電力の発電用に使われるだけだからだ。

大井川水系の概略図
図表=県の資料などを基に編集部作成

「毎秒2トンを表流水として中流域に返してほしい」

住民の命懸けの「水返せ」に山本知事は応えようとした。

しかし、石油エネルギーを輸入に頼る日本にとって、水力発電は大切なエネルギー自給の切り札だった。ちょうどオイルショックが直撃した時代でもあり、東京電力から「水利権は半永久的なもの」として一蹴されてしまった。

山本知事の後を継いだ、斉藤滋与史知事、石川嘉延知事も、東京電力、中部電力との間の水利権更新を大きな政治テーマとして、住民らの「水返せ」に粘り強く尽力した。