※本稿は、橋下徹『折れない心 人間関係に悩まない生き方』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
個性の正体は「ざらつき感」
世間と自分の「ズレ」を正しく認識した後に、それをどう自分の考えに落とし込み、発信していくか――「持論」の重要性についてお話ししたいと思います。
その前に、「個性」とは、結局何なのでしょうか。
僕は個性の正体とは、「ざらつき感」だと感じています。
「ざらつき」とは、「引っ掛かり」です。「違和感」です。「ウイルスのスパイク」のようなものと言ってもいいかもしれません。自分の試行錯誤が、本当に正解かどうかは分からない。もしかしたらチャレンジすぎるかもしれない。しかし、「自分はこれで行く!」という意思と根拠をしっかり持つことです。
その意思は棘のように、相手の心に突き刺さり、深い印象を残すこともあるでしょう。もしかしたら、その印象が強いために、不快感に近いものを与えるかもしれません。その結果、陰口を叩かれたり、炎上したりすることだってあるかもしれません。
それでも、ういろうのように、こんにゃくのように、ゼリーのように口あたりがよい人間より、ずっといい。つるりとスムーズな舌触りは、相手に不快感を与えない代わりに、どの人の印象にも引っかかりません。周囲と摩擦を起こさない「好ましい人物」扱いはされるでしょうが、誰の記憶にも強烈な爪痕を残さないのです。
「個性」を重視した石原慎太郎さん
僕は生前の石原慎太郎さんとお付き合いがありました。大阪府知事に就任した際、東京都知事だった石原さんにご挨拶に伺って以来、折に触れ、お話をする機会がありました。
石原さんは威厳ある方で、決して最初から親しみやすい雰囲気を醸し出されてはいません。そこに萎縮して思うように話せない人もいるでしょう。でも、こちらが堂々と自分なりの意思をもって話していると、人懐こい笑みで、包み込んでくださる方でした。
そんな石原さんは、相手を見るとき、そこに「個性」があるかどうかを一番重視されていました。眼光鋭く、押し出しの強いあのキャラクターで相手を睥睨し、しかし、それでもひるまず、自分の個性を保ち、自分の意見を持つ人を石原さんは評価したのです。
たとえ自分と意見を異にしていても、そこにその人なりの持論があれば、相手を評価する。「個性」とは「人と違うこと」「ざらつき」であることを、彼ほど知っていた人はいないでしょう。かつて異色の小説『太陽の季節』を世に送り出した稀代の作家ですから。
だからこそ、オリジナルの個性も意見も持たず、ただただ自分におもねるだけの相手のことを、石原さんは決して評価はしませんでした。それは相手の機嫌を損ねないためだけの、見せかけのまろやかさであることを知っていたからです。
どこまでも自分色を薄めた無難な「個性」は、周囲と摩擦は生まないでしょうが、何も後に残りません。ナタデココやこんにゃくゼリー、タピオカといったつるりとした食べ物が、日本では周期的にはやりますが、肝心の自分の「個性」まで、つるりと喉ごしよくしてしまったら、周囲と差別化などできません。ブームが去れば、そこにいたことさえ忘れ去られてしまうのです。