最大の失敗は2007年、第1次安倍内閣が退陣する時

安倍さんとの関係で、最大の失敗は2007年、第1次安倍内閣が退陣する時でした。

安倍さんは参院選で歴史的惨敗を喫し、森元首相などは「今のタイミングできちんと退陣をして身を引き、再起を考えるべきだ」と提言しましたが、安倍さんは続投を決断しました。

ただ、内閣支持率がかなり落ちていたため、大幅な内閣改造が不可避な状況。安倍さんはだんだん精神的に追い込まれ、体重もガクンと落ちていきました。

セミが鳴く8月下旬の夕暮れ時、安倍さんは私に電話で「もう組閣はやめようかな」と漏らしました。驚いた私は「参院選を大敗した時点で続投を決めたのに、こんな中途半端なタイミングで政権を投げ出すのは指導者としてありえない。絶対にやり抜くべきだ」と声を張り上げてしまいました。

辞任会見をする安倍晋三首相(2007年9月12日午後、東京・首相官邸)
写真=時事通信フォト
辞任会見をする安倍晋三首相(2007年9月12日午後、東京・首相官邸)

記者と取材先という矩をこえてしまった

結局、内閣改造は予定通り行われたのですが、私は大きな間違いを犯してしまったと激しく後悔しました。取材するのではなく、ただ、取材先である安倍さんに、自分の思いを主張しただけだったからです。

「記者と取材先という矩をこえてしまった」と思いました。そのわずか2週間後の退陣では、携帯電話の電源は切られていて、つながりませんでした。

報道に携わる者は、社会の木鐸ぼくたくであるべきだ、とか国益を考えるべきだ、などとそれぞれの思いを胸に取材していますが、そうした気持ちを大切にしながらも、「正確な事実を迅速に伝える」という使命は絶対に忘れてはいけない。そのことを深く思い知らされました。

その後、安倍さんは雌伏の時代を経て、2012年に再登板を果たし、歴代最長政権を築いていきます。盤石かと思われていた第2次安倍政権でしたが、2020年の夏、第1次退陣の時と似たような状況に直面しました。安倍さんにとって2019年は新しい元号「令和」を決めて、G20大阪サミットを開催するという全力疾走の年だったのですが、その後、新型コロナという未知のウイルスとの闘いが待ち受けていました。

最初は武漢にチャーター機を飛ばして日本人を帰国させたり、「ダイヤモンドプリンセス号」の封じ込め対策を行うなど、熟練の危機管理手腕を見せていました。ところが3月以降になると、「アベノマスク」や困窮世帯への給付金などを理由に、世論が冷え込んでいきました。

夏の初め頃には、安倍さん自身も目に見えて体調が悪くなっていき、再び潰瘍性大腸炎の症状が現れたのです。8月6日の広島訪問で、足を引きずる姿を目にした時、私の頭には、また「あの時」の悪夢が去来しました。