「公共の電波」は「知る権利」と結びつく
まず、「公共の電波」の原則に反するという点から説明しよう。世界で公共放送がスクランブルをかけている例は、私の知る限りない。おそらくないだろう。なぜならば、それは「公共の電波」という原則、受信の自由、受信の権利、そして知る権利に反するからだ。
電波(本稿では地上波のこと)は誰のものでもない、みんなのものである。だが、みんなが使うと混線してしまって使えなくなるので、特定の放送事業者に放送を許し、免許を与える。そのかわり、放送事業者は「公共の利益」に資する、偏向のない放送サービスを電波の届く範囲の地域住民に提供する義務がある(あるいはオークションにかけて売って、収入を地域住民のために使ってもいい)。
スクランブルをかけること、すなわち、ある人には放送サービスを届け、ある人には届けないというのは「公共の電波」の原則に反するのだ。
スイスなどでは、これは知る権利と強く結びつけられ、参政権にもかかわっていると考えられている。ドイツもしかりだ。だから、彼らからすれば「スクランブルをかけて、受信できないようにしてくれ」は愚民がいうことだ。自らの権利を放棄するかどうかは当人が決めればいいことで、わざわざスクランブルをかけるまでもない。
お金を払っていない人にも受信の権利はある
もちろん、問題なのは、その放送サービスに料金を払うべきかどうかだ。結論からいうと、「公共の電波」を使わせているのだから、地域住民が放送サービスを受けるのは当然で、受信料など払う必要はない。事実、民放は受信料を取らないし、公共放送であっても、広告を入れたり、無料化したりする国は少なくない。
地域住民には受信の自由があり、受信の権利があるのだから、料金を取るべきではない。みんなの電波を使っているのに、料金を払える人々だけが受信の自由があり、受信の権利があるというのはおかしいからだ。
驚くかもしれないが、これは占領中に放送法の制定に関わっていた時、GHQの民間通信局や民間情報教育局の将校たちが日本に持ち込もうとした考え方だ。
彼らは、それまでの受信届け出制を自由受信制に変えた。つまり、終戦までの日本では放送を受信するためには、お上に届け出を出し、許可をもらわなければならなかったが、これを、届け出不要で、自由に受信できるように変えたのだ。