かつての江戸には幕府非公認の売春地域「岡場所」が100カ所以上もあったといわれる。立教大学名誉教授の渡辺憲司さんは「岡場所は単なる売春街ではなく、独自の庶民文化が生まれるエリアだった」という――。

※本稿は、渡辺憲司『江戸の岡場所』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

香蝶楼国貞 岡場所錦絵「辰巳八景ノ内」、蔦屋吉蔵
香蝶楼国貞 岡場所錦絵「辰巳八景ノ内」、蔦屋吉蔵(出典=国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代の裏面史・岡場所とはどんなところか

江戸文化の爛熟期とでもいうべき文化文政時代を支えたのは、階層下落に陥った武士たちに代わった庶民であった。

管理売春総帥の名を権力に与えられた吉原は、江戸文化の発信源とよばれ、小説・物語、浮世絵や歌舞伎の世界で華やかなスポットを浴び続けた。甘美な情緒や独特の文化に人々は幻惑された。

ことに太夫とよばれた高位の遊女との交際は、高級社交場として多くの人の憧憬の対象となった。

一方で、江戸の盛り場の至るところに根を張り庶民の支持を受け、独特の文化土壌を育んだのが、吉原以外の買売春地域〈岡場所〉である。

岡場所は、庶民ことに町人階級の法にそむく自立的覚悟の上に成り立っていた。その岡場所に対し、権力者と同調する者たちは蔑みの視線を向けた。岡場所の歴史は闇の遊里裏面史といっていいかもしれない。しかしそこに吉原を凌駕するかのごとき文化的土壌が醸成されたことも事実である。

幕府公認だった吉原との違い

岡場所は、幕府公認、官許の吉原に対して吉原以外の非公認・黙認の遊里のすべてをいう。

品川・千住・内藤新宿・板橋の四宿は、準官許で飯盛女を置くことが許されたので、岡場所から除くといった考え方もあるが、そこにいた遊女の多くは、黙認の形が多く生活実態も岡場所と同様であったと考える場合が多い。

江戸の吉原以外、つまり吉原のほかほか場所、岡目八目の岡と同じく局外の意である。

上方では大坂新町・京島原をくるわとよび、それ以外の遊里を「島」(江戸の岡場所)とよぶ。おか、わきの意味から転じたという説もある。「かくれざと」「かくしまち」などといった言い方もある。

川柳などでは、語調を合わせ「岡場」ともいう。「岡」と略しても使う。「外場所」といった表記もある。

本稿では、遊女という呼称を、岡場所の女性たちにも用いているが、〈岡場所女郎〉といった言い方もよく使われる。幕府の公文書で常用されるのは、〈隠売女〉あるいは〈売女〉である。密娼という言い方もある。

遊女を吉原に限って用い、岡場所は売女という表現を使うべきだという主張もある。吉原の遊女を公娼といい、岡場所の女性たちを私娼とよぶ。