※本稿は、五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
男をやめるくらいの覚悟が必要だった
おん歳97歳の高齢者のかたが車を運転して、人身事故をおこされたニュースを新聞で読んだ。
なんとも痛ましい事故で言葉もない。これまでも高齢者の運転事故はたびたびあったが、97歳というのは最高齢ではあるまいか。
人はいったい何歳ぐらいで車の運転からリタイアすべきか。
これは難しい問題である。身体能力や運転技術には個人差があるからだ。
車の運転というのは、単に身体能力の問題だけではないのである。視覚はもちろん、聴覚や嗅覚、触覚その他、あらゆる感覚を動員しなければならない。
車自体の異変は、匂いで察知することができる。不規則な振動や異音もそうだ。ただハンドルを操作すればいいというものではない。動体視力や反射神経も大事である。
私は初老に達したときに運転をやめた。そのときの寂寥感というのは、たとえようのないほどのものだった。おおげさに言えば、男をやめるくらいの覚悟が必要だったのである。
〈これでおれの人生は終った〉と心の底からそう思った。車は私の無二の親友のようなものだったのだから。
慎重になっても、五官の劣化は隠しようがない
高齢者運転講習を二度受けて、三度目は諦めた。
運転技術が衰えたとは自分では思っていなかった。むしろ歳を重ねて、若い頃よりもはるかに慎重に運転するようになっていたと思う。
それでも運転をやめたのは、いくつかの客観的な変化を自覚したせいである。
たとえば、60歳を過ぎた頃から、両目の上瞼がたれ下ってきているのがわかった。そうなると上方視界がおのずと狭くなる。交差点の直前の信号を見るためには、いちいち顔を上向きにあげて確認しなければならない。
これはほんの一例だが、いろんな場面で若い頃の運動神経が劣化してきていることは明きらかだった。
歳を重ねることはマイナスばかりではない。ひどい渋滞で身動きがとれなくなっても、以前のようにいらいらしなくなった。
〈まあ、いつかは動くだろう〉と、カーラジオをつけて落語を聴いたりする。「お先にどうぞ」と、道をゆずる余裕もでてくる。
しかし、それでも五官の劣化は隠しようがない。背後の車からクラクションを鳴らされて赤面することもしばしばだ。