必要もない高齢者講習を二度も受講した理由

「歳をとると家の犬までおれを馬鹿にしやがって」と、ため息をつく同世代の友人がいた。

「その点、クルマだけは変らずにおれに忠実だ。メンテナンスさえちゃんとしていれば、こちらの思う通りに動いてくれるからな」

私もときどき眠れぬ夜に、野外の駐車場においてある自分の車の中で時間をすごすことがあった。

エンジンをかけてこの車を走らせさえすれば、いまから北海道へでも九州へでも行けるのだ、と思うと心がなごんだ。車は走るだけの道具ではない。

運転をやめてからの数年間は、気が抜けたような日々が続いた。そんな空虚感に慣れてきたのは、70歳をこえたあたりからだったような気がする。

運転をやめたあとでも、私は自分の運転免許証をほかのカード類と一緒に持ち歩いていた。

〈運転はしないが、運転はできる〉と、いうのが心の支えだったのかもしれない。必要もない高齢者講習を二度も受講したのは、そのためだ。

「できない」のと「しない」のではまったく違う

このところ話題の和田秀樹医師の本の広告には、80歳をこえたら〈タバコはやめなくていい〉〈ガンは切らないほうがいい〉などの提言とともに、〈運転免許は返納しなくていい〉というアドバイスが出ている。

私も運転免許証に関しては同意見だ。

私は65歳で運転をやめた。ただし、運転免許証はすぐに返納せず、高齢者講習を受講して、免許証を所有していたのである。

運転をしないのに、何のために免許証を持ち歩いているのか。

私は運転はしない。しかし、〈運転ができる〉人間でありたかった。自分でハンドルを握ることを抑制しているのであって、免許証を持たないがゆえに運転できないのではない。そう自分のことを思いたかったのである。

〈できないからしない〉と〈できるけどしない〉のあいだには深くて暗い川がある。

できない、のではなくて、しない、のだ。運転する権利は保持しつつ、自由意志によって運転しないと決めているのである。

五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)
五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)

はたから見ると滑稽な痩せ我慢としか思えないだろう。何もそこまでこだわる必要があるのかい、と笑われそうだ。

しかし、運転をやめるというのは、そういうことである。それは何十年も車と生活した人だけにわかる感覚だろう。

私は高齢者に免許証を返納したほうがいいとは言わない。免許証は所有しておく。ずっと持っていたければ3年おきの高齢者講習を受けることだ。

そして、ある年齢からは自分で運転を控える。する自由と、しない自由を大事にしたいと私は思うのだ。

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