私たちは何のために働いているのか。個人投資家の穂高唯希さんは「”社畜”と呼ばれるような働き方をしている人は、思い込みで視野が狭くなっている。職場に染まりすぎて本来の自分を見失わないことが重要だ」という――。

※本稿は、穂高唯希『#シンFIRE論』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

勉強机のラップトップの前で頭を抱える男
写真=iStock.com/Fajar Kholikul Amri
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大企業で感じた「普通でいなければ」という息苦しさ

現代では「社畜」という言葉を耳にします。

社畜とは、「会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や長時間勤務もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とされています。なかなか刺激的なワードが並んでいます。

私が会社員として勤めていたのは大企業で、「普通でいなければならない」という空気、無難に型通りふるまうことがよしとされる文化に、猛烈な息苦しさを感じていました。自分らしさを解き放ち、のびのび過ごした学生時代とのギャップが大きかったのだと思います。毎日決められた時間に出社し、昼休みに1時間だけ行動の自由を得られ、夜遅くまではたらき、帰宅後も土日も業務に追われる自分が、いつしか豚舎に通う豚のように思えたからです。そのような自分の状態を揶揄、自嘲してみずからをトン(豚)と呼んでいました。

私のツイッターアカウントは@FREETONSHA、ブログURLもfreetonsha.comです。いずれもTONSHAというワードが入っています。

当時いかに、その状態に対して強烈な違和感を持っていたかが表れています。「自分はこうなるためにいままで生きてきたのか? いや、ちがう」と。決められたことをこなすのではなく、自分でやることを決めて、主体的に自由に生きたかったのです。そしてその状況を手に入れて気づいた、私なりの脱社畜というテーマを論じていきたいと思います。誤解なきよう申し添えますと、サラリーマンという働き方や会社自体を否定しているわけではなく、会社には貴重な経験をさせてもらったことに感謝しています。