新聞記者もそうですが、私たちがニュースの記事を書くとき、初報では「こういう事件が起きました」「こういう問題で誰某がこう言いました」という形で事件や問題のそもそものあらましを伝えます。

これが続報になってくると、伝える側としてはなるべく新しい情報を多く提供したいと思うから、事件や問題の発端、経緯についての説明が圧縮されてどんどん短くなります。しかしテレビの視聴者や新聞の読者で、問題のあらましをずっと覚えている人は、ほとんどいないと思います。

「そもそも」の部分が欠落すると、事件や問題の流れや全体の輪郭がぼやけてきて、新しい情報の意味付けもよくわからなくなってくる。それで大体、ニュースについていけなくなるのです。

速報性が求められるデイリーのニュースや新聞記事は新しい情報を詰め込むやり方でもいいと思いますが、私たちのような報道番組は何かの問題を取り上げるときには一度、事件や問題の流れをせき止めて報じることになります。そのときにいつも欠かせないのが「そもそも」ということです。「そもそもこの問題は……」ということを説明しないと、恐らく誰も見てくれない。

視聴者のレベルが高い、低いという問題ではありません。「そもそも」から説き起こすことによって、取り上げる問題の奥行きや立体感というものが浮かび上がってくる。それが視聴者の関心を引き込んだり、それぞれの問題意識を整理したり、想像力を掻き立てる大切なきっかけになると思うのです。

同じ問題がずっと続いて、新しい情報が積み重なってゆくほどに、「そもそも」は語られなくなります。しかし、問題の根源がどこにあるかを忘れて、今起きている現象を追いかけても絶対に本質には迫れない。

普天間基地の移設問題で名護市の稲嶺進市長にお話を伺ったときに、事前の打ち合わせで稲嶺さんは500年前のことから語り起こされました。基地をどこに持っていくかということだけではなく、沖縄が抱えている問題を本当に理解するためには、500年前の沖縄と本土の関係、中国との関係まで含めて、遡らなければならない。