日本人が知らない日韓交渉の歴史的経緯
そういったわけで、私は今回の韓国政府の決断を歓迎するが、政権交代になったら韓国側がまた、問題を蒸し返すのではないかと懸念する声もある。そのときは、今度こそ断固たる対抗措置が必要だ。その前提として、請求権問題については、日韓交渉で日本が例外的に譲歩したのだということを知らない日本人が多いので解説しておきたい。
韓国・朝鮮の独立を認めるのは、ポツダム宣言を受け入れた以上、やむを得ないことだった。ただ、平和条約の内容として盛り込まれるべきもので、それまでは日本の統治体制が維持されるべきだった。もし、数年の時間をかけて段階的に権限委譲して独立させていたら南北分断も朝鮮戦争も起きなかったし、統一朝鮮国家は順調に発展しただろう。
ところが、アメリカがソ連と密約し、北半分を占領させ、日本の統治機構を停止させ、さらには、少額の現金以外を持ち帰ることすら禁止して日本人を着の身着のままで退去させ、財産を没収したのは暴挙だった(前述の拙著で詳しく紹介した)。
岸信介政権は韓国に有利な条件で交渉を加速
のちに、サンフランシスコ講和条約締結の過程で、没収措置が追認されたが(返還は要求しないということ)、補償を求める権利は放棄していないことや請求権交渉で相殺の対象になることも確認されている。
そして、1950年代初期に始まった日韓交渉で日本は、韓国側より日本側の請求権のほうが多いという立場で臨み、革新陣営を含めた世論もそれを要求した。だが、日本統治下の半島にはほとんどいなかった両班(貴族)出身の李承晩が大統領のうちは、ほとんど進展がなかった。
だが、1957年に発足した岸信介政権は、反共という観点から国交樹立に熱心で、実質的に韓国に有利な条件とする主導権を取った。その過程で、山口県出身であるので韓国人の血も混じっているかもしれないといったリップサービスまでして、その発言が一人歩きしてしまったほどだ。
1963年に朴正煕政権ができた後、池田内閣から佐藤内閣にかけて交渉をまとめ上げたのも、岸信介の側近だった椎名悦三郎外務大臣(当時)である。内容は、請求権は互いに放棄する、賠償はしないが経済協力を行うというものだった。徴用工などには個別に払うと日本側は提案したが、韓国側は政府が処理すると主張した。