※本稿は、三枝匡『決定版 戦略プロフェッショナル』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
企業経営の羅針盤とされたPPM理論の勃興
ブルース・ヘンダーソンがBCGを創設し、戦略の概念を生み出した1960年代は「経営戦略の黎明期」と呼べる時期だった。彼がプロダクト・ポートフォリオ・マトリックス(PPM)理論を完成させたのは、その年代の最後、1969年のことだ。
BCGのPPMは、企業が抱える商品や事業を戦略的に分類し、これから最重点とすべき成長事業はどれか、また、成長率は低いがキャッシュフローの源泉になっている成熟事業はどれか、あるいは、今後の成長性も利益性も期待できない負け犬事業はどれか、などを明示するものだった。
当時の米国企業のトップたちは、企業経営の羅針盤となる新論理が出てきたことに熱狂的反応を寄せ、1970年代は「経営戦略の時代」になっていく。
企業における「将」と「智」
米国企業トップの権限は大きい。トップ1人で決定を求められることが多い。だから、「意外に大ざっぱ」にものを決めてしまうことも起きかねない。
トップが仕事の負荷を減らしたければ、補佐役を置くことができる。しかしその人数は多い場合でもせいぜい2人。できるだけ「小さな本社」を維持するために、コーポレイト(持株会社)に余計な部門を置かないのが彼らの一般的な考えだった。
企業トップから見れば、配下の事業部社長(ディビジョン・プレジデント)は、それなりの意思決定を行う「将」である。日本で言えば、戦国武将の腹心の部下たちが、あちこちの出城の城主を務めているようなものだ。
映画で見るように、国全体の戦いとなれば彼らは殿様の下に集まり、軍議を開いて戦略を進言する。その場合はラインの「将」が、戦略スタッフとしての「智」の役割も兼ねている。米国企業のトップと事業部社長の関係も同じようなものだったと言える。