「是非に及ばず」の本当の意味

その姿勢は死を迎えるまで続いたのかもしれません。

1582年、本能寺の変で、1万を超す軍勢に囲まれた信長は「如何なる者の仕業か」と周囲に尋ねます。家臣の「明智の手の者と思われます」との返答に「是非に及ばず」と述べたと伝えられています

「物わかりのいい上司」としての信長の姿を知ると、「是非に及ばず」という言葉の意味も少し変わってくるように思います。死に対する達観と併せて、部下を説得できなかったことへのどうしようもなさを口にしたのかもしれません。

ちなみに、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の『三河物語』にも本能寺の変の記述があるのですが、軍勢が本能寺を包囲した時、信長は「城の介の裏切りか」と言い放ったようです。城の介とは、織田信忠。信長の子でその後継者でした。その時、京都にいました。

感情ではなく論理を優先する

幾度もあった家臣や味方の裏切りに対し、怒りをぶつけるのではなく、まずは話を聞こうという姿勢を貫いてきた信長。その時の心理とはどのようなものだったのでしょうか。

考えるに、無駄な争いは避けたいという心があったと思います。家臣や味方の不満や要望に応えて、それで余計な戦をしなくて済むならば、それが一番と考えていたように推測します。

戦をするということは、兵糧も必要であるし、人的被害が出る可能性が高い。争って双方に被害を出すことは敵を利することであり、なにより敵対勢力との抗争に戦力を投入した方が良いとの考えが信長にあったのではないかと思います。

感情ではなく論理的に物事を考える。考えてみれば、信長は出自を問わず優秀な部下を抜擢、出世させていました。