序列化はよくないが、努力や意欲を否定する必要はない

この問題系に対して、教育社会学者の本田由紀は、「垂直的序列化」と「水平的多様化」を概念的に区別するとの提案をしている(※3)。ここでは、それぞれを単純に「序列化」と「多様化」と呼ぶことにしよう。

メリトクラシーの何が問題なのか。問題は、一元的な基準で人間を測り、優劣をつけて、その人を「功績」や「能力」で定義していく「序列化」にある。序列の決定には運という要因が無視できないほど大きい上に、違う評価基準で見れば人の序列は簡単に変わっていく。それにもかかわらず、この社会では特定の一元的な序列、人間たちの優劣や価値を決めている。

なるほど、「序列化」は問題かもしれない。だとすれば、何かを身につけ、知ろうとすることは無駄なことなのだろうか。もちろんそうではない。「序列化」は避けねばならないが、個々の人間や仕事を尊重し、そのあり方に応じて知識やスキル、関心を形成しようとする「多様化」はむしろ奨励されるべきだろう。地道に努力し、学習を積み上げ、その達成を味わい、そこに自分なりの矜持を持つことには、特に非難されるべきところはない。

序列化・多様化

序列化に抵抗し、多様化を推進する難しさと魅力

共通テストの会話に応答をするとすれば、「一元的な基準での序列化はダメだけど、多様な卓越性を追求していけるといいかも」というところだろうか。もちろんこの答えも完璧なものではない。

「多様な選択肢から可能性を選びとる余裕があるかどうかは、やはり経済的な豊かさと関係するのでは?」などといった反論もありうるだろう。それに、他人のやっていることを自分もやってみたいと思うのも、マウントをとったり嫉妬したりするのも人間の避けがたい感情だろう。このことを考慮すれば、「序列化」に抵抗し、「水平的多様化」を実装するために取り組むべき課題は膨大であるように思われる。

それでも、これらの概念には魅力的な奥行きがあり、諸々の現代的な論点へと通じている。例えば、「多様化」は、他者および自分に対する気遣いを意味する「ケア」という論点につながっているし、「序列化」は、自己完結的な感覚を強化し、他者を出し抜いていくという自己啓発・ファスト教養文化の問題点につながっている(※4)