「努力」か「運」、どちらの立場が正しいのか?

共通テストの中では、明確な結論は出てこない。教員役も登場するが、明確な考えを提示せずに「いい話」風にまとめて話を終えている。では、結局どちらの見解が正しいのだろうか。

どの親の元に生まれるのかを選べないのだから、結局すべては偶然にすぎないのではないか。いやいや、どんなところでも努力ができるはずでは? いや、その努力への意欲や習慣形成も、(家庭・学校・地域・社会などの)環境のなせる業なのだとすれば、やはり運では……? だとすると、努力しても仕方がないのか。

運を否定せずに努力を認める道もある

博報堂生活総合研究所の定点調査「生活定点1992-2022」の言葉を借りるなら、ここにあるのは、「運・ツキ派」と「努力派」の分断である。共通テスト「倫理」で交わされた会話のすれ違いは、成功や功績は社会構造や家庭環境などの偶然性に左右されるという「運・ツキ派」の見方と、成功や功績の原因は個人の努力や意欲にあるという「努力派」の見方のすれ違いを表している。

だが、問題なのは、どちらの見方もそれなりに正しいと感じられるところではないか。「倫理」で会話している人物たちも、「どちらもそれなりに正しい」と感じている節がある。両方それなりの適切さが含まれるからこそ、この問題に関する考察は、ぐるぐると回ってどこにも辿り着かないのだ。

膠着こうちゃく状態に入ったときの定石は、対立する立場が共有する「議論の方向性」に目を向けることだ。会話者たちは、〈運か努力かという問題において、運(環境)が役割を果たしていることは否定しえない〉と認めながら、その上で、〈努力(学習)を通じた卓越化については放棄すべきではないと言えないか〉という方向性で考えを進めようとしている。

この議論の方向性が正しいとすれば、私たちに必要なのは、「運か努力かという二者択一のどちらを選ぶのが適切か」というディベートを降りることだ。そのとき、手中にある対比に乗って考えてはいけない。運か努力かという対比を、別の対比にずらさねばならない。では、それはどんな対比だろうか。