情報過多のこの時代だからこそ、シンプルな言葉が心に響く。短編小説の名手が気の利いた表現、言い回しを指南する。
作家 阿刀田 高
1935年、東京生まれ。国立国会図書館勤務時代に執筆活動を開始。短編集『ナポレオン狂』で第81回直木賞受賞。日本ペンクラブ会長、直木賞の選考委員などを務める。

誰が誰に向けて発するか、どのような状況で発するか。それによって意味合いが異なるのが言葉である。万能薬のように何にでも利く言い方は存在しない。あ情報過多のこの時代だからこそ、シンプルな言葉が心に響く。短編小説の名手が気の利いた表現、言い回しを指南する。ったとしても、便利に使われるうちに手垢まみれになり、本来持っていた輝きをなくしてしまう。

よい例が「粛々(しゅくしゅく)」。大臣答弁で「その件につきましては粛々と対処してまいります」などと使う。

かつては川中島の決戦を描いた頼山陽の漢詩の一節「鞭声粛々夜河(べんせいしゅくしゅくよるかわ)を過(わた)る」が代表的な用例だった。耳馴染みのないころは、なかなかいいことを言うと感心して聞いていた。だが最近は誰もが気軽に使うので、「静かにひっそりと」という本来の意味が薄れてしまった。したがって、心に響かない。

その点、小泉純一郎元首相は言葉に鋭敏な政治家だった。次のジョークも聴衆の心をつかむ秀逸なものだ。

「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、『まさか』」

「下り坂」までは、ふつうに納得できる話である。では3つ目は何だろうと身構えていると、一転して「まさか」。洒落である。だが、考えてみれば「まさか」という出来事が人生にはよくある。洒落で笑わせつつ、状況を的確に伝えるみごとな言い回しだ。

洒落や地口、言葉遊びには、馬鹿にできない効果がある。次のような地口は覚えておいて損はない。

「そうか(草加)、越谷、千住の先よ」

「旨かった(馬勝った)、牛負けた」

念のため解説しておくと、「そうか!」と納得したあとで、すかさず「越谷、千住……」と地名を並べる。特別な意味はないのだが、ちょっと可笑しい。

日本人にはアルコールに弱い人が少なくない。酒を無理にすすめられて困ったとき、どう断るか。

「ごめんなさい。私、手酌体質なので」

酒場で小耳にはさんだ言葉である。せっかくすすめてくれた相手に「迷惑です」とは言いにくい。小さな笑いをさしはさむことで、その場の空気が和むのだ。