信長や秀吉に比べると、徳川家康の女性関係はあまり知られていない。直木賞作家の安部龍太郎さんは「家康には記録に残るだけで20人の側室がいたと言われます。しかし九州大学教授の福田千鶴さんの研究によれば、彼女たちは全員が側室、つまり妾ではなく、継室と呼ぶべき正式な妻もいたようです」という――。

※本稿は、安部龍太郎『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版)の一部を再編集したものです。

家康はなぜ正室・築山御前を引き取ったのか

家康の最初の正室となったのは、築山殿(築山御前?~1579)。今川一門の関口氏純の娘で、母は義元の妹もしくは伯母とも言われています。弘治3年(1557)に家康と結婚。2年後の永禄2年(1559)には嫡男の松平信康を、永禄3年には亀姫を産んでいます。

築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

父・氏純は桶狭間の戦いののち、今川から離反した家康と通じているのではないかと今川氏真に疑われ、妻とともに自害に追い込まれました。今川家に人質のようなかたちで身柄を拘束された築山殿は、子どもたちを守り続けていましたが、やがて人質交換で母子三人そろって岡崎に引き取られます。

しかし、なぜか築山殿は岡崎城には入らず、城外の西岸寺に居住します。このことから、すでに築山殿は家康に離縁されていた、あるいは二人の関係が悪くなっていたと見る人もいますが、そうであれば、なぜ人質交換によってわざわざ築山殿を引き取ったのか。信康と亀姫だけを引き取るということもできたはずです。

悲劇をもたらしたのは信康に嫁いだ信長の姫だった

家康は築山殿の両親である関口夫妻に対する罪の意識を持っていたのではないでしょうか。自分が今川と手切れをしたために、彼らは命を落としたわけですから。その贖罪意識もあって、築山殿と離縁することもなく、人質交換で手元に取り返したのではないか。私はそう見ています。

元亀元年(1570)、家康は遠江の浜松城を新たな居城として移ります。すると、嫡男の信康が岡崎城に入り、築山殿も生母として入城します。そして天正7年(1579)には信康の正室・徳姫(信長の娘)のひと言が原因で、築山殿は処刑され、まもなく信康も二俣城で自刃しました。