2代将軍親子を殺害

だが、実は、義時の冷酷さは、それ以前にもいくつも見てとれる。

たとえば比企の変の直後。『吾妻鏡』では、頼家の子の一幡は、小御所を攻められたときに比企一族と一緒に命を落としたことになっているが、『愚管抄』には、その場は脱出できたと記されている。そして、2カ月後に義時が探し出して殺害したというのだ。

さらには、頼家の殺害を指示したのも義時だといわれている。奇跡的に回復しながら将軍職を追われ、伊豆の修善寺に幽閉された頼家は、送られた刺客と激しく戦った末に殺されている。あたらしい鎌倉殿に、そして北条に恨みを持ちかねない人間は、今後の紛争の根を断つために殺すしかない――。頼朝譲りの冷酷非情な哲学である。

ライバルに行った非情な仕打ち

さて、時政が失脚したのが元久2年(1205)で、その後、御家人中の最高権力者は、父親に代わって政所別当に就いた義時だったが、その最大のライバルが和田義盛だった。実朝も直情径行な義盛をおおいに信頼したという。

和田義盛(図版=前賢故実/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
和田義盛(図版=前賢故実/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

そこで義時は一手を打っている。安念という僧が謀反の存在を白状した際、関係者として捕縛された人物に、和田義盛の子の義直と義重、そして甥の胤長そねなががふくまれていた。

もっとも、冤罪の可能性が指摘され、義盛の2人の息子はすぐに赦免されたのだが、甥の胤長はひとまず留め置かれた。そこで義時は、いまがチャンスとばかりに義盛を挑発した。

義盛は実朝の御所を訪れて胤長の放免を申し出たが、その際、義時の家人が預かっていた胤長を、後ろ手で縛ったまま義盛らの前をわざと歩かせた。

プライドが高い義盛はそれを屈辱だと受け取って、建暦3年(1213)5月2日、ついに決起。御所を襲って実朝の身柄を確保しようとするが、翌3日、義時らの軍勢に滅ぼされてしまった。