“子どものための漫画”が誕生
――映画は小さい頃からよく両親と観に行っていたんですよね? チャンバラならお父さんが連れて行ってくれそうな感じがしますけど。
【鈴木】『赤胴鈴之助』はやっぱり子どものものだから、親父としては別に観たくないわけです。子どものためにわざわざそういうものを観に行くという親じゃなかったですね。
――「鈴之助のように強くなりたい」と思って、主人公に感情移入して読んでいたわけですか?
【鈴木】小さかったから、とにかく夢中でしたよね。でもあとから振り返ってみると、子どもたちの間にあった「大人が信用できない」という気分も関係あったと思うんですよ。戦後、日本が名実ともに独立を回復したのが1951年のサンフランシスコ講和条約でしょう。大雑把にいうと、それまではチャンバラものは禁止だったんです。
──GHQが軍国主義につながるような文化は排除しようとしていた?
【鈴木】そう。小説も漫画も映画も、戦時中は戦意高揚の道具に使われたから、戦後は禁止された。
ところが、独立とともにそれがもういちど解禁される。その流れで生まれたのが『赤胴鈴之助』だったんじゃないかと思うんです。
――解禁されてみると、やっぱり日本人は剣豪もの、チャンバラが大好きだったと。
【鈴木】というのか、そもそも『赤胴鈴之助』のような子どもが主人公の漫画は戦前にはなかったんじゃないかと思うんですよ。ちゃんと調べたわけじゃないけど、田河水泡の『のらくろ』(1931年から『少年倶楽部』に連載)なんかも大人が読んでいたわけだし。
――じゃあ、なんで戦後、子どものための漫画をつくろうということになったんでしょう? それもGHQの方針ですか。
【鈴木】いや、自然発生だと思う。戦後しばらくは戦争孤児たちがたくさんいて、復興してからも貧困でつらい目に遭っていた子どもたちは多かった。それは日本が戦争に負けたからで、その戦争をやっていた大人たちは信用できない。時代の根底にそういう気分があったと思うんですよ。
――いままで偉そうにしていた大人たちがアメリカの言いなりになり、教育もまったく変わった。子どもたちとしてはショックを受けますよね。
【鈴木】やっぱり「負けた」というのが大きかったんだと思う。戦争に負けちゃった日本は嫌い。手のひらを返した大人は信用できない。だから、戦後の漫画では子どもが主人公になり、武器を持って悪い大人と戦うようになった。
ぼくが知るかぎりこういう物語は世界にはない。日本に特有の現象なんです。戦後の子どもの目には、大人の剣士と戦って勝つ赤胴鈴之助がやっぱりかっこよく見えたんですよ。
描き手も「子ども」だった
――ただ、そういう漫画を描いているのは、負けた大人たちだったわけで……。
【鈴木】いや、戦後のいろんなヒーローを生み出したのは、みんな16、17歳ぐらいでデビューした人たちなんですよ。高校に行くお金がないから、みんな中学を卒業して、食っていくために漫画を描いていた。
そのなかでひとりだけ違っていたのが手塚治虫さんです。なんといっても手塚さんは大卒だし、しかも医学部ですからね。でも、それはあくまで例外で、日本の漫画界の根っこには戦後の貧しさ、学校に行けなかった人たちがいるんです。
――漫画は生きていくため、稼ぐための手段だったんですね。
【鈴木】彼らは16歳で一家を支えなきゃいけなかった。だから、主人公が少年だったのは単なるファンタジーじゃない。自分自身が必死で闘っていたんです。それでリアリティがあったんでしょうね。『赤胴鈴之助』の「親はいないが 元気な笑顔」とか、『まぼろし探偵』(桑田次郎[二郎]原作、59年にテレビドラマ化)の「親に心配かけまいと」という歌詞は、それを象徴していますよ
時代はあとになるけど、『じゃりン子チエ』(はるき悦巳 作)なんかも、お父さんより娘のチエのほうが大人なわけでしょう。それが日本の漫画の大きな特徴だったんじゃないですかね。