北条氏が2代目将軍を殺したワケ
頼家と近い比企一族は、初代将軍・頼朝の前から源氏に仕えてきた一門だ。頼朝、頼家を育てた乳母は、比企一族の女性だった。さらに、頼家の愛妾は能員の娘で、子を産んでいる。北条時政としては、自身と対立する比企一族に結び付く頼家が邪魔だったのだろう。
さらに、時政は、まだ少年である頼家の弟・千幡(後の3代将軍・実朝、乳母は時政の娘・阿波局)を擁立することを念願し、それを実行に移した。そうなると、頼家を生かしておいては、後でどのような反撃があるか分からない。よって、頼家を殺害したと思われる。
日本史に残るすさまじい殺され方
20代前半の頼家はまだ若く、暗殺者もなかなか殺すことができなかったようで、首に緒を巻きつけ、ふぐり(睾丸)をおさえつけ、無力化したところを押さえつけて殺したという(天台宗の僧侶・慈円が書いた『愚管抄』)。すさまじい殺し方、死に方である。
頼家の最期を見ても、彼は武勇にも優れていたと推測される。
頼家が直接誰かを倒した、殺したとする記録はないが、彼の弓の師匠は、弓の名手・下河辺行平であり、頼家自身も弓の腕前は優れたものがあったという。
『吾妻鏡』以外の頼家の評価としては「頼家は古今稀な弓の腕前を持つと聞こえていた」(『愚管抄』)、「百発百中の芸に長じていた」(鎌倉時代の歴史物語『六代勝事記』)というものがあり、とにかく、頼家は武勇、特に弓の腕前に優れていたことが分かる。武家の棟梁である「鎌倉殿」にふさわしい資質であろう。
頼家は比企氏と結び付かず、北条氏と密着していれば、非業の最期を遂げずに済んだろうが、頼家と比企氏の関係は、父・頼朝の意向によって、生まれた時から既にインプットされており、頼家の悲劇は既にそこから始まっていたと言えよう。