「日本が得をする戦争は正しい」はずが…
そうして強化した軍隊で、次の日露戦争を戦った。これもなんとか勝ちはしたけれども、不本意なことに賠償金は取れなかった。国民がそれを知って暴動を起こしている。三国干渉で受けた屈辱を晴らすとか、ロシア南下の恐怖を払拭するとか、いろいろなことが戦争の原因に挙げられているが、賠償金が取れなくて国民が暴動を起こすというところに、この戦争に対する真の期待が何にあったかが透けて見える。
第一次世界大戦も含めて、近代日本の10年おきの戦争ラッシュには、実利主義という背景がある。つまり戦争が、政治・外交の延長ではなく、国家の営業品目になっていったのだ。戦争とは軍国日本にとって、賠償金を取って大儲けするためのおいしいビジネスと化したのである。
あの時代の男子の多くが軍人を志した理由は、出自に関係なく立身出世ができ、時には爵位を得て華族になることも可能だったからだ。だが、その実態は戦地に赴任する営業マンのようなもので、出世を争って微差のために身を粉にする意識構造は、戦後のモーレツサラリーマンとほとんど同じようである。
このような背景で、戦争は正しいものだった。もちろんそれは勝利を前提にしてである。
太平洋戦争では原価計算ができなかった
だとすれば、太平洋戦争については、実利主義できちんと計算して「今回はパスしておこう」となるのが自然だったはずなのだ。プラグマティズムで考えれば、後の研究で自明なように、まったく勝算は生まれてこないからである。
帝国主義国家は、他国との戦争をするというときには、厳密な原価計算を行っている。その結果、いくらの利益が得られるかを示さなければ、国家プロジェクトとして裁可されないからである。
太平洋戦争の場合、日本にはこの原価計算ができなかったのかもしれない。先に挙げた「八紘一宇」のようなスローガンはおおむね思想的なミッションを示しただけのものであり、実利主義的な説得力は持っていない。敵とする対象があまりにも大きすぎたので、「計算しなくても勝てば自ずと原価は合う」と思っていたのか。
そのような面からの太平洋戦争研究も、今後の論点だと思う。