SNSで可視化される「キラキラ格差」と分断
特筆するべきは、サイゼリヤへの否定的言説が激しい炎上の種火となるときとそうでないときにも一定の差があることだ。その差は「だれがそれを言ったか」によって生じている。とりわけ激しい火柱を上げるのは多くの場合、その発言者が「サイゼリヤを行くことはめったにないくらい豊かできらびやかな生活を送る人」であるときだ。
サイゼリヤをふだん行くこともなく、もっと上質で美味しい料理を口にしている人びとは、サイゼリヤでいつもリーズナブルでお腹いっぱいになって酔うことを楽しみにしている人の姿を具体的に想像できなくなっている。そのせいで、本人はとくに悪気はないのだが「サイゼを美味しいと思う人とは味覚が合わない」と素朴に語ってしまい、毎回大炎上する。
SNSを覗けば、社会全体からすればごく僅かにしかいないはずの高所得者たちが、日々きらびやかな生活を送り、豪華で美味しそうな料理を食べて過ごしている様子がたくさん可視化されている。
食生活を含め、一人ひとりの暮らしが不特定多数に公開されシェアされるSNS時代に「自分の身体は、食べたものでできている」という古くからの言い伝えがそこに重なると、社会の水面下で深刻な憎悪や分断を生み出してしまう。
だとしたら、高級で上質なものを食べている人間は「すばらしい人間」で、そうでない自分は「劣等な人間」ということになってしまうじゃないか――と。
「サイゼリヤ」に中高生ではなく働き盛りの世代から多くの支持が集まっていること、そして「サイゼリヤdis」をはじめとする「ふだん利用している安価な飲食店を(富裕層に)こき下ろされること」に毎度毎度おそろしいほどの“怒り”が噴出すること――それらはこの国の貧しさと格差、そして分断が水面下で拡大していることを暗に示している。