私たちは、食べたものでできている

たとえそれが個人的な食の好みにもとづく批評であったとしても、自分がとても好んでふだんから食べているものを他のだれかによって否定されて(いるのを目撃して)しまうと、私たちは往々にして自分の身体、自分の感性、もっといえば自分の存在そのものをけなされたような気分になってしまう。

端的にいえば、「私はそれを美味しいとは思わない」という言葉が「お前の身体は不味いものでできている」という意味合いに変換されてしまうのだ。

上掲の事例でみれば、たとえ文面では「サイゼを食べている奴はどうかしている」「サイゼを美味しいと言っている奴は味覚がおかしい」などとはいっさい書いていなかったとしても、それが言外でははっきり含意されているのと同じくらいの「否定」のニュアンスを受け取ってしまうのだ。

日本では古くから「食べ物には神さまが宿っている」などとよくいわれてきたが、あながち誇大表現ともいえない。食べ物はまさに、自分の命を日々つないでくれている“小さな神”そのものであり、これを貶されることは、まるで自分の半身を、あるいは信仰をけがされるような感覚にとらわれる。

クッキーを使って遊ぶ母親と息子
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「食べ物には神さまが宿っている」と近いニュアンスをもった英語圏のことわざに「You are what you eat」がある。私たちは、食べているものでできている。ふだんから口にしているものが、自分の身体をつくり、健康をつくり、そしてメンタリティーをつくっている。英語圏でもこの考え方は日本と共通している。

よって「サイゼは美味しくない」という文言は、その字面どおり「サイゼは美味しくない」ということではどうしても済まされない。それは相手の肉体的な実存性や精神的バランス、もっといえば信仰の否定にさえなってしまう。そう考えれば「燃える」のは避けられないのかもしれない。