天才プロデューサーとの変わった出会い

宮崎駿のキャリアにとって、鈴木敏夫の存在は欠かせない。その出会いは高畑勲の出会いと同じぐらい重要だろう。宮崎駿の生み出したクリエイティブを鈴木があの手この手で世界に広げていく。それは自転車の両輪で、どちらがなくとも回らない。

鈴木敏夫と宮崎駿、高畑勲の出会いはエッセイやトークでしばしば語られている。

最初のきっかけは、鈴木敏夫が1978年に『アニメージュ』創刊号の編集を突然全部任されたことにある。『太陽の王子ホルスの大冒険』という傑作があると聞きつけた鈴木は、それを誌面に取り上げようと監督(演出)だった高畑勲に会って欲しいと電話したのだ。

これに対して高畑はなぜ会えないかの理由を一時間にわたり説明した後、隣にいた宮崎駿に電話を回したのだ。

しかしこちらは逆に取材は構わないが16ページは必要だと無理難題。結局、編集の修羅場の時期でもあり、3人はこの時は会うことがなかった。宮崎駿が鈴木敏夫と実際に会ったのは、1979年の『ルパン三世 カリオストロの城』の制作の時だ。この時も『アニメージュ』の取材だが、今度は宮崎駿は「取材を受けたくない」と言う。

鈴木敏夫は一週間スタジオに通い詰めて、ずっと隣に座り続けた。そして一週間後、宮崎ははじめて鈴木に絵コンテを見せ、その後、宮崎駿と鈴木敏夫の信頼関係は、40年以上続くことになる。

絵コンテを描く手元
写真=iStock.com/smolaw11
※写真はイメージです

理想主義者と現実主義者

宮崎駿と鈴木敏夫の関係は、はたから見るととても不思議だ。宮崎はこうしたエピソードからも窺える気難しさが感じられるし、数々の発言からかなりの理想主義にも見える。

一方の鈴木敏夫は『アニメージュ』の編集者の前は、大衆誌『アサヒ芸能』にいたこともある。社会の表も裏も知り尽くしたとのイメージだ。そもそも映画のプロデューサーはお金を集め、人を説得して動かすが、正攻法だけでなく時には策略も巡らすはずだ。

宮崎の鈴木に対する信頼はどこから生まれるのか。かつて宮崎駿は理想主義について、「理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんです」と語った。

宮崎駿は現実主義の部分を、鈴木敏夫に預けることで、自らの理想を貫く道を選択しているのではないだろうか。

資金調達や制作費の回収、スタジオの雑事から離れることで、自らの理想にまい進する。それが宮崎駿の現実主義で、ちょっと拡張して表現するなら「聖なる宮崎駿」「俗としての鈴木敏夫」と一対になる。

対照的なふたりだからこそ、信頼関係もまた生まれたのではないか。「宮崎駿」「高畑勲」を発見し、日本のみならず世界に通ずると信じて次々に話題を作りだす。鈴木敏夫はプロデュース、プロモーションの天才だ。この3人の関係性が築かれたことで、世界の宮崎駿、スタジオジブリは初めて可能になったのである。