当初は海外を意識していなかった「スタジオジブリ」
『風の谷のナウシカ』の制作後、宮崎駿のキャリアは大きな転換を迎える。1985年のスタジオジブリの設立だ。『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトを発展的に解散、これを母体に高畑勲と宮崎駿のクリエイティブを実現するスタジオを目指した。
ここで大きな役割を果たしたのが、鈴木敏夫である。スタジオジブリの設立には、鈴木敏夫の出身会社である徳間書店が出資した。そして鈴木敏夫の役割が本格的にプロデューサーに変わっていったのもこの時期である。
制作スタジオはトップクラフトを母体に引き継いだ。1972年に東映動画出身の原徹が設立したトップクラフトは、もともと北米のスタジオから制作受注を受ける海外合作に特化していた。しかしトップクラフトの流れを汲むものの、むしろ当初スタジオジブリは海外をあまり意識も、重視した形跡もない。ここでは海外受注のスタジオから国内長編映画のための転換が目指されていた。
スタジオジブリの海外評価とは裏腹に、2000年代初頭でさえスタジオが積極的に海外に向けてアクションすることは少なかったのである。
ベルリン国際映画祭で一躍名を上げる
『魔女の宅急便』、『もののけ姫』の大ヒットもあり、90年代には国内での宮崎駿の知名度と人気は一般層にまで到達する。一般メディアでも作品の批評や分析が載るなど、評価はすでに固まりつつあった。
しかし世界における宮崎駿のキャリアの転換は、ベルリン国際映画祭だろう。『千と千尋の神隠し』が日本映画として39年ぶりに金熊賞に輝いたのだ。アニメーション映画の受賞は初だ。
世界には権威が高いとされる国際映画祭がいくつかあり、ベルリンの他にフランスのカンヌ、イタリアのヴェネチア、カナダのトロントなどが知られている。しかしその中でもベルリンとカンヌは飛びぬけた存在である。
このふたつの映画祭のコンペティションで賞を獲ることは多くの映画人の夢でもある。金熊賞はその中でグランプリにあたる。その受賞はサプライズと共に受けとめられ、宮崎駿の存在は、日本だけでなく世界でも一気に知られるようになる。
サプライズな受賞で注目度が上がり作品が広く知られるようになったベルリン国際映画祭は、宮崎駿の世界での評価の起点となった。
宮崎駿の活躍は、その後に続く日本のアニメ監督の世界進出でも大きな役割を果たした。映画祭から名を上げることで、海外で認知を上げるルートが確立され、知名度のある監督が次々に登場する。そうしたルートを開拓した宮崎駿は日本のアニメ監督の海外評価を築いた先駆者でもある。