男女で異なっていた「ふつう」の閾値

いま多くのフェミニストや社会学者やリベラリストが本人の主観的にはSNSで日々直面していると感じている「女性蔑視」や「女性差別」や「ミソジニー」は、しかし実際にはその大部分は女性蔑視や女性嫌悪などではなく“本当の意味での男女平等”である。

とどのつまり、世の男性たちに向けて「お前ら男は、もっと男女平等になれ!」と啓蒙してきた当人たちこそが、世の一般的な男性が啓蒙を忠実に内面化しているがゆえに実践して見せる「ふだん自分が受けているのと同じ言動や扱いを女性に対しても行う」という、真の意味でジェンダーレスでフェアな態度に耐えられなかったということだ。

男性は――フェミニストたちの教えを忠実に守り――自分たち男性がふだん扱われているのと同じような期待値で女性をフェアに扱うようになった。しかし肝心の女性側はそれを「女だからと差別せずフェアに扱ってくれている」「女性である前にひとりの人間として尊重してくれている」などとは認識できなかった。なぜなら男性にとっての「ふつう」の水準は、女性の感じる「ふつう」の基準とはあまりにもかけ離れているものだったからだ。

男性記号と女性記号が等号で結ばれた式が描かれたカードを路上で持つ人
写真=iStock.com/Bulat Silvia
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一般的な男性個人が世間に対して内面化している「ふつう」の基準は、女性からすれば自分がゴミか虫けらのように扱われるような光景に見えてしまうこと請け合いだ。男性と女性ではそれくらい「他者・世間(の自身に対する友好性や協力度)に対する期待値」に大きな格差がある。世の多くの男性にとって他者とか世間はいわば「うっすら冷酷なもの」であり、女性にとって他者とは「うっすら協力的なもの」である。

「ふつう」の期待値が女性のそれと大幅に(下方向に)ズレている男性に対して「これからの時代、女性を特別扱いするのではなく(それこそ自分が他者や世間にされているように)ニュートラルに接するのがただしいのだ!」と教え諭してしまえば、こうなるのは火を見るよりも明らかだった。