「勝負の厳しさ」を子供に背負わせるのは重過ぎる

勝てば認められるというのは、裏を返せば「負ければ認められない」ということである。ここには失敗すれば承認を失うことへの焦燥が生まれる。この焦燥には、自分の存在が揺さぶられるかもしれないという切実さが込められている。つまり条件付きの承認は、安心どころか不安を、それも生の実存を脅かすほどの不安を子供にもたらす。

勝てば認められ、負ければ認められないという「勝負の厳しさ」は、競争を本質とするスポーツに内在する論理である。スポーツをする以上は避けて通れないのはよくわかっている。

ただこの厳しさは大人だから折り合えるのであって、心身共に成長期にある子供には荷が重い。幼い頃から一つのスポーツに打ち込んできて(あるいは打ち込まされてきて)、競争をけしかけられてきた子供は、それ以外に承認欲求を満たす術に乏しい。生きる実感を得る唯一の手段がスポーツであるとしたら、しかもそこで得られるのが条件付きの承認であるとすれば、それはあまりに過酷である。

子供にとって勝つか負けるかという勝負は、自我の確立がかかった死活問題である。勝って安堵あんどし、負ければ悲壮に打ちひしがれる。付加価値でしかない勝利を当然の結果として受け止め、敗北すれば自我が欠落するほどの喪失感をともなう心境は、想像するだけでつらい。得るためではなく失わないための競争なのだから、負けが続けば、いや、たった一度の負けでさえ、途端にその支えを失って自分を持ち崩すことになるのは必然的な帰結である。

子供を狂わせる「勝利」という麻薬

勝利とはある種の麻薬である。勝利はこの上ない恍惚こうこつをもたらすからだ。

スタジアム全体に歓喜が渦巻き、観客からの賞賛を全身に浴びた時の興奮と、日々の努力が報われたような達成感は、なにものにも代え難い。悔しさを押し殺すべく複雑な表情を浮かべる対戦相手を見れば、優越感も湧く。全身の細胞が活性化し、体の隅々にまで力が漲るようなあの感じは確実に癖になる。

この恍惚もまた、子供を狂わせるものの一つである。

まだ未熟な子供たちの日常には、禁止や当為が張り巡らされている。してはいけないことやすべきことに縛られた日常を過ごすなかで、早く大人になりたい、早く自由を手にしたいと望むのが子供である。そんな窮屈な日常から、たとえ一時的ではあっても勝てば解放される。周囲から手放しで賞賛され、一人前の大人として認められたような感覚に陥る。一足飛びで大人になったようなこの感じは、達成感や優越感はもとより人生の舞台が好転したかのような高揚感を子供にもたらす。