今度は、マルクス先生から現代的な言葉が飛び出した。
「最近は、FIRE(Financial Independence, Retire Early)などといって、早期退職を目標とした動きも出ているようですね。これも一概には言えませんが、労働からの“解放”が希望のように語られること自体、労働本来の豊かさが失われていることの一つの証なのではないでしょうか。そもそもの働くことの意味を取り逃がしているように、私には感じられますね。皆自分自身の仕事に十分な意義を感じることが出来ていないから、こうした疎外された労働から早く解放される為の動きが活発になっているのではないでしょうか?」
今も昔も変わらない資本家と労働者の構図
「とはいえ、私はあなたのような人が疎外を感じているのが新鮮でもあるのですよ、アライさん」
突然、マルクス先生の口調が穏やかになった。
「労働者は疎外されているわけですが、それは生産手段から引き離されることによって起きるものです。しかし、あなたが行なっているのはいわば頭脳労働。新しいアイデアが『商品』となるのが今という時代のようですから、すなわち価値を生む工場が人間の脳内になっているとも言えるのかもしれません。すると、現代において、あなたは生産手段をもった資本家の側の人間と見ることもできないわけではありませんよね」
「先ほどから私が、どうしてそんなものに追い立てられるのか? と否定的に語っているあなたの掌の中にある機械……、スマートフォンと言うそうですが、随分な高性能の生産手段とも言えるわけなのでしょう? つまり、安価で高度な機械技術に多くの人々がアクセスすることが可能になっているという意味では、今の社会はかなり生産手段の解放が進んでいると言えなくもないのではないですか? 資本家だけの占有物ではなく」
労働者は替えの利く歯車なのか
「だとすれば、小さな資本家でもあるあなたが、なぜ疎外を感じるのでしょうか? なぜあなたは自分で得た知識、自分で得たスキル、そのことによってよりいい仕事をしているはずです。特別剰余価値を手にしているにもかかわらず、一体何が不満なのか? と考えてみることもできるのではありませんか?」
アライさんはハッしたような表情を一瞬浮かべて、考えこんでしまった。少しの沈黙の後、静かに語り始めた。
「確かにマルクス先生のおっしゃる通りです。ただ、新しい知識やアイデアが資本となっている時代に知識労働をしているとはいえ、まだまだ自分は相変わらず替えの利く歯車のままというか、いてもいなくてもあんまり関係ないというか……」
マルクス先生はニヤッと笑った
「なるほど、面白いですね。どうやらあなたはデジタル資本主義時代の資本家であるかもしれませんが、それでもやはり依然として疎外される労働者でもあると……。デジタル疎外とも言うべき、現代ゆえの皮肉な現象ですね。実は、その悩み、多くの人々が抱えているのかもしれませんが、過度な分業がその背景にあるからかもしれません」