日本を滅ぼしかけた「規制の虜」
国会事故調報告書の冒頭で、私たちは事故の背景に「規制の虜」という概念があることを明示しました。これは1982年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のジョージ・スティグラー教授が研究した現象で、規制する政府機関の側が「規制される側」に取り込まれて支配されてしまう状況を指す経済用語です。
国家が国民のために産業などに必要な規制をかけるのは当たり前のことで、日本の政府機関と東京電力などの電力事業者の関係も当然そうあるべきです。
しかし調査で判明したのは、規制をする側である経済産業省や原子力安全・保安院、そして立法府までもが規制される側である東京電力に取り込まれ、国民の安全のためのチェック機能を果たさないばかりか、原子力利用の推進を前提として東京電力の利益のために機能するようになっていたということでした。
原子力発電についての専門知識とノウハウは電力会社の方が豊富ですし、原子力安全・保安院のような規制当局のトップは往々にして短期間で部署を異動する原発の素人ばかりですから、規制する側はどうしても事業者の後追いになってしまいます。
日本では電力会社が地域の送配電部門を独占していることも問題です。地域独占性が高く、選挙になると電力会社の社員が選挙応援に駆り出されたり、政官界のために天下りポストが用意されたりすることが常態化しています。
このような背景があり、本来は規制される側である電力会社が発言力を強め、規制する側はそれを鵜呑みにすることしかしてきませんでした。規制する側の政府が、事実上、電力会社に規制される側となったのです。
原子力発電の利権に群がる産官学とメディア
日本のメディアにも大きな責任がありました。本来、メディアには、住民側に立って安全性を監視する姿勢で調査報道する社会的役割があるはずです。しかし、規制当局と電力会社の説明を垂れ流しにすることで済ませ、自ら調べて監視していくという姿勢は見られませんでした。「私たちはきちんとやってきた」と主張するメディア人もいるかもしれませんが、日本社会にはそうしたことを評価するチェック機構がありません。
このような、原子力発電の利権によってなれ合った産官学とメディアは、総ぐるみで「原子力ムラ」と揶揄されています。そして、「規制の虜」という状況が、原子力ムラという異常な社会構造を支え、原子力政策において「日本の原発ではシビア・アクシデント(過酷事故)は起こらない」という楽観主義がまかり通ることになったのです。