そうやって日本国民をだましてきたことが、事故ですべて露見してしまったのです。歌舞伎は非常に洗練された日本が世界に誇る芸術ですが、国会や企業の統治機構が古典芸能では困ります。
結果として、「安全神話」のシナリオはフィクションでしかなく、根拠のない願望にすがって安全対策を放置し、その放置した箇所が大事故を起こしてしまったのです。きっかけは地震と津波だったかもしれませんが、事故が「規制の虜」によって起こった「人災」であることは異論の余地がないでしょう。
責任を取ろうとしないリーダーたち
事故を引き起こした東京電力、政府、国会議員、経済産業省、原子力規制委員会――産官学の「リーダーたち」は、私たちが国会事故調報告書で発した警告を、どう受け止めたのでしょうか。何も考えていないわけではないのでしょうが、関係する委員や省庁の職員が今、一体誰と会って何を話しているのかが、公には見えてきません。
あれだけの大事故が起きたのに、ポリシーが大きくは変わっていないのは明らかです。おそらくみなさん、自分たちが「リーダー」でいるうちは、下手に原子力行政に手を出したくないのでしょう。
政策をつくるのは主に官僚ですが、官僚は今までの法律の枠組みでしか考えようとしません。未曽有の大事故でしたので、過去の法律では対応できないはずなのに、「こういう法律があるから、政府ではなく東電がやることになっている」などと責任から逃げているのです。
そして、政治家も原子力行政に取り組めば票が逃げるので、官僚の言い分に乗っかってしまう。政治も学会もマスコミも、原子力ムラの村民の誰もが、まるで傍観者のようになっています。
福島第一原子力発電所の事故を境に日本社会は変わらなければいけなかったはずですし、世界からもそのことが問われているのですが、責任ある立場の人たちがそのことをまったく自覚していません。みなさん、まず「変えられない」理由を言うのです。
私には日本の原子力関係者たちが「このまま事故が風化していけば、自分は責任をとらなくてよい」と考えているようにも見えます。このまま誰も責任をとらず、失敗から学ばず、改革のための具体的な行動を起こさなければ、また同じような事故が繰り返されるに違いありません。
原発事故が明らかにした「民主国家日本」の欺瞞
日本は地震大国です。世界で起きるマグニチュード6以上の地震の20%は日本で起きているともいわれています。そんな土地に50基以上の原発を抱えているのですから、日本は責任を持って原発の安全を検証しなければならないはずでした。
事故前から原子力規制委員会をはじめとした原子力行政は「日本の原発は世界で最も厳しい安全基準を満たしている」と主張していましたが、ふたを開けてみれば、これはまったくのでたらめでした。
私は国会事故調の委員長として、事故後にIAEAをはじめ多くの海外の原子力関係者に招かれてディスカッションの機会をいただきましたが、彼らは口をそろえて「日本の安全対策は不十分ということを、世界も、そして日本政府と関係者も知っていた」と語りました。