入社後23年余り、名古屋市を中心に中部圏の営業担当ですごす。その後半に生まれたエピソードが、始まりだ。旧態依然の販売会社を大胆に再編すべきとする「建白書」を書いた。その案に沿って、人員整理を進めた。すると、反対する販売店主らから本社に直訴状が届き、幸之助が唱える「家族主義」にこだわる社長が激怒した。上司とともに辞表を出したが、ある役員がとりなしてくれた。

「このまま中部圏で骨を埋める」と覚悟していたら、突如、花形ポストの東京・秋葉原の電気街担当の所長へ異動した。同期に比べて早い昇格ではなかったが、当時の人事に詳しい役員は「あのころ、中村さんは幹部候補の1人に名を連ねた」と証言する。次いで、米英の子会社への赴任を重ね、一気に頂点が近づいた。

ITを駆使したサプライチェーンの導入、女性と外国人ら多様な人材の登用、プラズマディスプレーテレビなどコア・ビジネスへの経営資源の集中、家族の絆を取り戻すための在宅勤務の採用など、社長になって手がけた「創造」でも、もちろん、「突破力」を必要とした。08年10月1日に実施した松下電器産業からの社名変更では、創業家の名が消えることで秘かに松下家を説得し、大坪文雄社長に道筋を開いてあげた。そこにも、関係者の想像を超えた「突破力」があった。

いま、日本経団連の副会長。道州制導入の旗振り役などを務めているが、ここでも「静にして幽」は変わらない。福田内閣が打ち出した消費者庁の新設。その骨格を描く懇談会のメンバーを務めたとき、経団連幹部が繰り返し「企業側の主張」を代弁するよう要請した。だが、中村さんは頷かない。

「私は、経団連代表としてメンバーに入ったわけではない。首相に直に頼まれ、一経営者として引き受けた」。次期経団連会長候補の1人に挙げられる存在であっても、しがらみには引きずられない。信念もあった。幸之助精神の中核である「お客さまの近くに」という理念を受け継ぎ、「21世紀は『消費者主導』の時代だ」と確信する。企業の論理にしがみついていては、何も突破できない。

三洋電機の買収にも、社内外は「中村主導」を感じ取る。自分たちの行く手を照らす松明を手に、静かに「突破力」を求め続けるリーダー。11月5日の本社講堂での講話は、翌日、社内ホームページで放映された。おそらく、全社員にとって「忘れられない日」になるだろう。

(撮影=奥村 森、芳地博之、尾関裕士)