※本稿は、小笠原弘幸『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
数百人の女奴隷がいたハレムの本当の姿
「ハレム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともとは「禁じられた」という意味である。そこから派生して、王宮や家庭において、よそ者の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようになった。
では、ハレムで働く女性は、どのようなルートを通じてハレムに入ってくるのだろうか。
彼女たちは、基本的に奴隷身分であった。奴隷として購入されるわけであるから、まず思い浮かぶのは、奴隷市場であろう。混み合う広場につくられた台の上で、奴隷を連れた奴隷商人が売り口上を張り上げ、周囲の買い手たちが競り合って奴隷を購入する……。
中東をモデルにしたフィクションでおなじみのこうした風景は、宮廷の女奴隷たちに限っていえば関係のないものだった。ハレムで働くような高級な奴隷の購入は、こうした公衆の市場ではなく、商人の邸宅で行われたからである。
ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて、欠点がないことが求められる。すこしでも瑕疵のある奴隷は、ハレムに入ることができなかった。
たとえば、歯が欠けていると金額が安くなったし、扁平足であれば、不吉だと見なされて買い手が付きにくかったという。
女性たちはどこから連れてこられたのか
とはいえ、奴隷商人からの購入は、数あるリクルート方法のひとつにすぎない。それ以外には、大きく分けてふたつのルートがある。
ひとつは、戦争捕虜である。
ヨーロッパと繰り広げられた戦いのなかで、捕らえられ、奴隷となった者たちが男女を問わず存在した。たとえばムスタファ二世(在位1695~1703年)は、トランシルヴァニア遠征で捕虜とした女奴隷を、母后に贈っている。また、帝国海軍や、帝国の息のかかった海賊たちは、しばしば地中海の小島や航行する船を襲い、奴隷を獲得して宮廷に献上した。