※本稿は、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
関東の農村から江戸に集まった窮民をどうするか
18世紀中頃以降、江戸では「無宿」の流入という問題に直面した。関東農村の荒廃、天災、飢饉などにより、生まれた村を離れて江戸に来る窮民が続出していたのである。
「無宿」とは、江戸時代の戸籍にあたる「宗門人別改帳」から除かれた行方不明者を言う。天明7(1787)年5月、江戸で大規模な打ちこわしがあり、翌月に松平定信が老中首座(筆頭老中)に就任した。定信が直面したのは、無宿の増大に対していかに対処するかという課題であった。
定信は、評定所一座(寺社奉行・町奉行・勘定奉行らで構成した老中の諮問機関)に、無宿対策を諮問した。
これまで無宿は、「狩込」と称して捕縛し、差別された人々の集団に送っていた。しかし、多数の死者が出るなど好ましい状況ではなかったので、定信は、無宿を伊豆七島に送るなり、出身地の大名に引き渡すなりの方策を考えた。
しかし、評定所一座は、伊豆七島へ送るのは収容能力に問題があり、島の者も困る、大名も無宿の受け取りには難色を示すなどと、否定的な意見を上申した。
江戸の治安回復のために2つの無宿対策を提案
定信は、評定所一座を見限り、寛政元(1789)年の秋から冬にかけ、広く幕臣に意見を聴取した。そこで手をあげたのが、火付盗賊改の長谷川平蔵だった。
火付盗賊改は、放火犯や強盗を検挙するだけでなく、日常江戸市中を見回り、火の用心を周知させ、窃盗犯などの検挙も任務としていた。そのため、平蔵は犯罪に関与する無宿の実態に委しく、これを放置していては江戸の治安は回復できないことを痛感していた。
平蔵は、定信に無宿対策を自分が試みてみたいと上申し、意見書を提出した。その骨子は、無宿を集めて作業を課し、職業を習得させること、及び作業と並行して精神的な教育を行うこと、の2点であった。