「ホームドラマ」になくて「MY HOUSE」にあるもの

三浦 この映画の題名は「MY HOME」ではなく、「MY HOUSE」ですね。これはなぜですか。

 そもそもは坂口さんの原作に習って、「0円生活0円ハウス」という題名で準備していたのですけれど、ある日突然「MY HOUSE」という言葉が降ってきまして。「カモナマイハウス」っていう歌もあるなとか思いましてね(笑)。「MY HOME」だと、郊外にあるような、現代の生活拠点のようなイメージがしてしまう。そこには家族があり、旦那さんの出撃基地であり、教育をする家庭であり、主婦がいて……というイメージがある。鈴本さんの家は、お医者さん一家の暮らす郊外の一戸建てのような「家」ではない。だけども確かに家なんです。そこが一番、この主人公の人となりの面白いポイントなわけでして。それを表現するには「MY HOUSE」は一番ぴったりな単語だと思ったんです。

三浦 僕は「マイホーム」という言葉が、あるときから違和感を持たれるようになってきたと思っているんです。2001年に僕は、『マイホームレスチャイルド』という本を出しました。「マイホームレス」っていう言葉を思い付いたのは99年か2000年です。1999年に出した『「家族」と「幸福」の戦後史』の中では、マイホームの限界みたいなことを書いていました。実際、マイホームを捉え直すのは、郊外に生まれ育った団塊ジュニアあたりだろうと思っていましたし、もう35年も前に「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、主演・八千草薫)というテレビドラマがあって、マイホームが虚妄だという常識が出始めてはいたのですが、そのころ生まれた人たちが大人になったときに、単に虚妄というのではなく、別の「ホーム」という捉え方が生まれてくるんじゃないかと、ずっと考えてきたんです。それから今日までの間に、特に今度の震災後、「マイホーム」ということばは、かなり使いにくい言葉になってきたと思います。

 「岸辺のアルバム」は、申し訳ないですけれど見ていないんです。小学生のころは別ですけれど、私は大学を辞めるまで、ほとんどテレビも映画も観ていないんです。一番皆さんと話が合わないのが「青春シリーズ」とか、「赤いシリーズ」。まったくといっていいぐらい、ひとつも見ていない(笑)。ただ、これは私のものを作る原点とも言えるんですが、亡くなられた演出家の久世光彦さんを尊敬していまして、「寺内貫太郎一家」や、その前の「時間ですよ」は、ほぼリアルタイムで観ていました。

 「寺内貫太郎一家」で樹木希林さんが(沢田研二のポスターに向かって)「ジュリ~!」って叫ぶくだりは、虚像、虚構のストーリーの中に、リアルがいていいのだという印象を強く持ちました。嘘っぱちのストーリーなのだけれど、そこにリアルなものをどんどん放りこんでいくという、自分がドラマや映画を作るときにずっと続けてきたやり方、その原点と言っても差支えない。もちろんストーリーも破天荒なキャラクター造形も面白かった。けれども、落ち着くところは落ち着いていて、日本人の原風景を見るようなくだりもあり、同時にひじょうに現代的でもあり。刺激的なドラマでした。あれが私の出発点なんです。

三浦 僕も「赤いシリーズ」や「寺内」のころは受験生だったので、リアルタイムではあまり見ていないんですが、『「家族」と「幸福」の戦後史』を書くときにビデオを全部集めて、ほとんどを観ました。そのとき気がついたんですが、「寺内」も「時間ですよ」も、実はあまりうまくいっていない家族なんです。

 そうなんですよね。

三浦 たとえば「時間ですよ」は東京の銭湯が舞台ですが、東京の銭湯は1968年(昭和43年)をピークに減っていく。そこを舞台に1970年代にドラマをつくるということは、すでに失われゆくものなんです。実際にあのドラマでも、長男は会社の課長になって、奥さんは来たけれど、最初は番台に乗ることができないというところから始まる。「寺内」は石屋ですから、衰退産業です。お父さんの昔のミスで長女役の梶芽衣子は脚が不自由。うまくいっていない家族ですよね。皆が昭和33年は良かったねと語る映画の「三丁目の夕日」も、けっしてうまくいっている家族のドラマではない。どこにも、「MY HOUSE」の医者の家庭のような、お父さんとお母さんと子供がふたりという標準世帯はいないんです。妾の子供が出て来たり、住み込み職人がいたりする。なのに観る人が、勝手にそこに温かさを感じて、気持ちを投入しちゃっている。実は家族をテーマにしたドラマっていうのは、いつもそういうふうに、どこか欠如している。