政府の強制では「死んでも命は賭けない」

【伊勢﨑】だけれども、もう一つ言っておかなければいけないのは、そのときに僕が銃を取るのは、政府に言われるからではない。そこが重要です。

【柳澤】強制するのが正しいのかどうかということですね。

【伊勢﨑】国民に強制する前に敵と政治交渉しろ、と。それができない政府なら、逆にそっちに銃を向けるかもしれません。クーデターですね。僕は、そういうオルグは得意なので。とにかく、日本政府や日本の政治家が言い募る国家主権などには、“死んでも”命は賭けません、僕は。

【林】そういう意味では、ウクライナをめぐっては、いいことしか伝わってないかもしれないです。けれどもというか、だからこそというか、刺激的ですね。

【伊勢﨑】当事国でもないのに、単なるバカ騒ぎ。ウクライナの悲劇を嫌中、従米、そして九条護憲などのポジショントークに利用するだけの熱狂。ただそれだけ。

一人ひとりの自覚がないと国防は成り立たない

【柳澤】だから、加藤さんの言われた「身捨つるほどの祖国はありや」というのは、そこが一番本質的、根源的なところなのですね。戦前であれば、「万世一系の天皇、これを統治す」という神国日本の臣民として、それは当たり前だと教育勅語で叩き込まれてきたわけです。身を捨つるべきものはそこにあるという教育を受けてきたわけです。

しかし今どうするかといったら、それは本当に、一人ひとりが自分の胸に手を当て考えなさいということだと思うのです。本当に死んでも守りたいような社会なのかということです。

加藤朗、柳澤協二、伊勢﨑賢治、林吉永『非戦の安全保障論 ウクライナ戦争以後の日本の戦略』(集英社新書)
加藤朗、柳澤協二、伊勢﨑賢治、林吉永『非戦の安全保障論 ウクライナ戦争以後の日本の戦略』(集英社新書)

今、伊勢﨑さんがおっしゃったように、自分の家の近くに敵が来て、家族が危ないとなったら銃を取るというのは、多くの人が多分そうなのだと思います――そのときに銃があればの話ですけれども。

しかし一方で、今の若い人たちには、自分がアイデンティティーを感じる基礎になるような人間関係が必ずしもないし、そのときに何を守るかという問いへの答えがあるのだろうか。気の利いた子は自分の身を守るというかもしれないが、この際死んでもいいと思う若者もいるかもしれない。自分の存在がきちんと位置づけられるような社会が見えなくなっているのではないかという心配があります。

だから、まずは、自分の身の回りの社会を、自分の頭で考えてちゃんとつくろうよということです。それを自分の生きざまとしていく。そこから始めないと、日本という国の国防は成り立たないのではないかという気がしてしようがありません。

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