「エアマックスを復権せよ」というオーダー

当時のマーケットは、「エア フォース 1」と「ダンク」というコート系(テニス、バスケットボールなどのスポーツで使用されたシューズ)のスニーカーの独壇場だった。ランニング系スニーカーの象徴である「エア マックス」は、「エア マックス 95」が1997年に復刻発売したことでマーケットの熱が一気に冷めてしまった。

今では「復刻」と聞けば盛り上がるものだけど、早すぎる復刻はただのレプリカと捉えられかねない。それで、見事にみんなが飽きてしまった。完全に「エア マックス」は時代に置いていかれてしまっていた。そのこともあり、新しいアトモス別注に求められたのは、まさに「エア マックス」の“復権”だった。

そのとき僕たちが提案したのが、「エア サファリ」の“サファリ柄(ダチョウの革、オーストリッチから着想を得た柄)”を「エア マックス 1」に落とし込むというもの。個人的にも好きな柄だったし、入荷すればすぐに売れることは分かっていた。

その時代のトレンドはあるのだけど、スニーカーには、いつの時代も変わらない本質の形があると思う。普遍的なものとトレンドをうまく融合できると売れるのだ。本質的なものが分からないと、普遍的なものが選べない。それはスニーカーが好きという根本的な感覚だとも思う。

だからなんとなくだけど、「エア サファリ」のカラーリングを落とし込めば売れると思ったのだ。ただ、そのまま使うと面白みがないので、「外側と内側のスウッシュのカラーを変えたい」と伝えた。だけど当時のデザインレギュレーションでは、そんなのはNGだった。今の自由度の高さからは考えられないかもしれないけど、当時はそれがフツウなのだ。

それで、「まぁまぁ、いいじゃない」とナイキジャパンの担当者を半ば強引に説得し、出来上がったのが、2003年3月に発売した外側にオレンジ、内側にグリーンのスウッシュを配した「エア マックス 1 “アトモス サファリ”」だった。

アメリカの企業と付き合うコツ

アトモス別注は、またしてもヒットし、その甲斐あって、いくつかの別注プロジェクトへとつながった。

ナイキジャパンの人たちもアトモスやチャプターによく遊びに来てくれていて、その度に「どんな色やどんな柄が売れるかな?」という話になっていた。「“アトモス サファリ”」と同じ2003年に「エア マックス 1」と「エア マックス 95」をベースにした別注「バイオテック」カラーを、2004年に「エア マックス 95」の別注「レインボー」カラーを発売した。いずれも売れ行きは順調だった。

アメリカの企業であるナイキと仕事をするには、いい加減さも必要。1から10まで自分たちの意見を押し通せば、こんなに別注なんてできなかっただろう。分業制なのだから、それぞれの業務をリスペクトすることが大切だというのは肌で感じていた。そういった社内の温度感は、アトモスの担当だったナイキジャパンの営業、高見薫さんが僕たちに腹を割って話してくれた。