世界で初めての「エア フォース 1」別注
1~2カ月経ったころだと思う。ある朝、僕の携帯電話が鳴った。マーカスだった。「本明、ちょっとオフィスに来てくれ。サンプルが出来上がったぞ」。
その日のことは今でも鮮明に覚えている。誰もいないナイキジャパンのオフィスで、初めてサンプルを見た。想像以上の出来栄えに、「おぉ、これ売れそうじゃん」と僕が言うと、マーカスも「俺もそう思うんだ」と言う。
僕が「でも絶対に社内でダメって言われるに決まっているよ」と肩を落としていると、マーカスが「諦めるな、手は考えてある。オーダー数のミニマムが3000だからサイズのアソート(構成割合)を出してくれ」と紙を渡してきた。
僕はすぐに「エア フォース 1」と「ダンク」を3000足ずつ、合計6000足のアソートを書いた。すると、すぐ横にあったコンピューターにマーカスがサイズごとに数量を入力し始めた。そしてしばらく待っていると、画面に「CONFIRMATION」(承認)と表示されたのだ。
オーダーが通ったという意味だった。マーカスはすぐに「これは残しちゃいけないんだ。とりあえず消しておこう」と、オーダー実績を消してしまった。「大丈夫なの?」「大丈夫、大丈夫! でも絶対言っちゃダメだぞ。それにもうオーダーしたから絶対全部買い取れよ」。そんなやりとりをして、その日は解散した。
ところがその数カ月後、オーダーに載っていないスニーカーが6000足も届いたものだから、あっけなく僕の仕業だとバレてしまった。僕はナイキジャパンに呼び出され、アカウントを開いてくれたマツシタさんから「あんたたち、一体どういうつもりなんだ! こっちは遊びでやっているんじゃないんだぞ」とみっちり3時間怒られ、コテンパンにされた。
だけど、マツシタさんも売れるとは思ったらしい。「責任持って、全部買わせていただきます」と言う僕に対して、「ダメだ。うちでも売る」と言う。結局、アトモスで3600足、ナイキジャパンで2400足を売ることになった。僕は心の中で「ラッキー!」と叫んだ。後で、マーカスに「お前のせいで3時間怒られたじゃん」と愚痴ると、マーカスは「ほらな、夢は叶うだろ」と、親指を立てた。
そんな紆余曲折を経て、とうとう2001年5月に、アトモス提案カラーの「エア フォース 1」と「ダンク」が「CO.JP」(日本企画)として発売された。
ナイキだけが外部のデザイン案を採用していた
1店舗の小さな店だったアトモスが、大手スポーツチェーン店以外では初となるナイキの別注モデルを手掛けたのだ。
僕は、アトモスが後に、ナイキに世界有数のパートナーと認められたのは、結果的に個店として最初のナイキの別注相手になれたからだと思っている。このころからナイキは「量よりも質」を重要視するようになり、数々の別注やコラボレーションを生み出していくことになる。
「エア フォース 1」と「ダンク」のヒットを機に翌年、今度こそ“正式に”ナイキジャパンから声がかかり、新しい別注プロジェクトが動き出した。このころはナイキだけが、あらゆる可能性を求めてデザインの一部に外部の力を採用していた。