影響はショッピングモールにも及ぶ

【増田】98年に政権交代が起こり、翌年に罰則規定は廃止されましたが、2009年にはまた民族主義を志向した言語法の改正が可決されました。これによって博物館、図書館、映画、劇場、演奏会やその他の文化的イベントにおける看板やポスターなどの印刷物で、ハンガリー語のみの表記を禁じ、スロバキア語との併記を義務付けることになりました。表記の順番はスロバキア語が先で、少数言語は後という決まりです。

スロバキア語を少数言語よりも優位に置くこの法律が日常的な場面にも影響を与えたのは事実で、例えば、ショッピングモールの店員さんがハンガリー語でお客さんと話した時に、別のお客さんが「スロバキアではスロバキア語で話せ」と言ってきた、という話も聞きました。こうした圧力が、民族間の対立を生じさせてしまうのです。

この法律では少数言語による教育を禁じているわけではありません。学校の運営費は地方自治体がサポートしていて、その地域で要望が多ければ、少数言語を使った授業は続けられています。

26年に及ぶスリランカの内戦も、きっかけは「言語」

スリランカ第4代首相バンダラナーヤカ(1956年から1959年に暗殺されるまで在任)の公式ポートレート。
スリランカ第4代首相バンダラナイケ(1956年から1959年に暗殺されるまで在任)の公式ポートレート。(写真=Public Domain/PD-Sri Lanka/Wikimedia Commons

【増田】ただ、現実問題として、ハンガリー系の一家でも子供たちの将来を考え、スロバキア語での教育を受けさせようとスロバキア語の学校へ行かせる人たちも出てくるようになりました。そうなると、ハンガリー語での学校教育への要望は今後減っていくでしょうし、先のいちょう団地のケースのような、親子間のコミュニケーションの問題も生じてきます。

【池上】難しい問題ですね。スリランカは全人口の4分の3がシンハラ人、4分の1をタミル人が占める国ですが、1951年にシンハラ語を唯一の公用語にするという「シンハラ・オンリー」政策を掲げたバンダラナイケという政治家がスリランカ自由党を創設、1956年の選挙で首相となり、シンハラ語を唯一の公用語にしました。それはシンハラ語が使えない者は公務員の職を追われることを意味します。そのため、タミル語を話すタミル人が猛烈に反発して武装組織をつくり、内戦に発展しました。衝突は1983年に全面的な戦争に発展し、武装組織が壊滅して内戦終結が宣言されたのは2009年。内戦は実に26年にも及ぶことになりました。