「今! 戦機は後には来ない」

連絡会議では賀屋蔵相が口を開いた。『杉山メモ』をもとに再現しよう。

賀屋「このまま戦争をしないで、3年後に米艦隊が攻勢をとってきた場合、海軍に勝算はあるか」
永野「それは分からない」
賀屋「米艦隊は侵攻してくるか」
永野「不明だ。五分五分だと思え」
賀屋「来ないと思う。来た場合に勝つかどうか」
永野「今戦争をやらないで2、3年後にやるよりも、今やって3年後の状態を考えると、今やる方が戦争はやりやすいと言える」
賀屋「勝算が3年後にあるなら戦争をやるのもいいが、永野総長の説明では不明瞭だ。しかも、私はアメリカが戦争を仕掛けてくる公算は少ないと判断するから、今戦争が良いとは思わない」

東郷茂徳外相が加わった。

東郷「私も米艦隊が攻勢に来るとは思わない。今戦争をする必要はないと思う」
永野「『来たらざるを恃む勿れ』ということもある。先は不明で安心できない。3年たてば南方の防備が強くなる。敵艦も増える」
賀屋「では、いつ戦争をしたら勝てるのか」
永野「今! 戦機は後には来ない」

重要閣僚でありながら、そして和戦を決める国策会議のメンバーでありながら、文官である賀屋と東郷は軍備に関する詳しい情報を持っていなかった。他方、永野はふんだんに握っている。文官2人は、永野と軍事面での対等な論争はできにくい。「今戦った方が、2年3年先より有利だ」と言われれば、それを軍事的に論駁することは不可能であった。

だから「アメリカは攻勢をかけてこないだろう」という予想で永野の即時開戦論に対抗しようとしたのだ。

敵同士ならば、論争の中で情報量の差があって豊富な方が有利になるのは自然だが、和戦を決めるこの会議は味方同士の論争のはずだ。その会議で、重要な情報の量が著しく違っては、議論が間違った方向に行きかねない。これは今日の組織論にも通じることだろう。

物資計画も実現せず、敗戦への歩みを進めていった

永野と賀屋、東郷の論争に鈴木企画院総裁が割って入った。

鈴木「賀屋蔵相は戦争をやれば昭和16、17年は物的に不利だと考えているようだが、心配は必要ない。18年には物資の点では戦争をした方が良くなる。一方で、統帥部によれば戦略上、時日が過ぎればだんだん悪くなると言うのだから、戦争した方がいいことになる」

この日の会議は約17時間に及び、日付が変わった11月2日午前1時に散会となった。外交交渉をし、期限を切ってそれがうまくいかなかったら開戦、となった。9月6日の御前会議と同様である。ほんの少し戦争から離れたとすれば、アメリカに提示する交渉案で、近衛内閣の時より譲歩の幅を広げたことだ。

「臥薪嘗胆」をしていたら、アメリカが攻めてきたかどうかは分からない。確かなのは、永野がこの時点で言った「3年後」すなわち1944年11月時点で、日本は絶対に失ってならないはずのマリアナ諸島をアメリカに占領され、フィリピンも米軍に奪還されつつあったことである。敗戦まで9カ月に迫っていた。鈴木が太鼓判を押した1943(昭和18)年の物資計画も実現しなかった。

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